が。
「あれ?」
ディングは一瞬よろめき、慌てて石塀に手をついて身体を支えた。
「どうしました?」
道具屋の店主、ラドアが後ろから呼びかける。
「あ、大丈夫。なんかつまずいたみたい」
ディングは振り向いて笑顔で答える。
ジェローム四世島まで定期船と借りた小舟を乗り継いで上陸したのが数刻前。早朝に足を踏みいれた島に、昼前のまぶしい太陽が光を振り注いでいる。夏の名残か、日射しは強いが、吹き抜けていく微風が秋を感じさせていた。総じて、過ごしやすい天気と言える。
それなのに。
(なんか調子悪いな……)
ディングは首をかしげた。体調が悪いわけでもないのに、上陸してからというもの、どこか奇妙な感じがする。めまいや悪寒に似た違和感のようなものが絶え間なく彼を襲っていた。
「少し休みますか?」
ラドアはかつて分岐点だったと思われる大きな木の根元にディングを座らせる。上陸したのは島の南部にある村の跡地だった。島のほぼ中心にある目的地までは、徒歩でほぼ1日かかる。無人の廃墟となって久しいこの島では、徒歩以外の手段はなかった。とはいえほとんど起伏のない平坦な道が続くので、洞窟探検に慣れたディングにとって体力的な負担はほとんどない。だからこそ原因不明の調子の悪さが気にかかる。
(まあ、しばらくしたらよくなるさ)
持ち前の楽観的な性格で、ディングはそう思い、荷物から水入れを取り出して一口含む。
見渡すと周囲には何の変哲もない、のどかな自然が広がっている。道は人が通らないためか、草が生えて荒れた様相を呈しているものの、特に邪悪な気配やこちらをうかがう魔物などの形跡もない。
第一級危険区域にしては、あまりにも平和な風景である。
「ラドアさん、ちょっと聞いていい?」
「はい、なんでしょう?」
特に疲れた様子もなく、木に身体をもたせかけていたラドアが答える。
「この島、危険なようには見えないんだけど、ほんとに危険区域なの?」
「ええ」
あっさりとラドアは答える。
「十数年前、地下遺跡に巣食っていた死霊が突然力を増し、平和だった町を襲いはじめたそうです。襲われた人々も死霊となってしまい、島は大混乱に陥りました」
「でも今はこんなに平和だぜ?」
「事態を重く見たケレスの治安局が魔術図書館に依頼して除霊を試みたんですが、結局はもとの地下遺跡の最深部に封印するのが精一杯だったそうです。それも、いつ封印が解けて出てくるかわからない、不安定な状態で。ですから、今でも危険区域の指定を外せないんですよ」
「へえ……」
ディングはあらためて周囲を見回した。やはりどこから見ても平和な光景である。ただ、言われてみればどことなく、弱い死霊の気配がしないでもない。だが、どうも自分の感覚がうまく働いていないような気もする。調子のせいだろうか。
「あ、じゃあそういう死霊が襲ってきたりとかするかも知れないの?」
「そうですね……」
ラドアはディングの方を向き、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。死霊への対策はありますから」
ディングが想定したできごとは、案外早くにやって来た。適度に休憩を繰り返しながら島の中心部に向かい、もうすぐ地下遺跡にもっとも近い町の跡地にさしかかろうという頃、それは起こった。
時は黄昏、初秋の夕日が廃墟の建物に落とす長い影が、迫り来る夕闇と溶け合おうとする時刻。
はあ……とディングはため息をつく。おかしな疲労感とめまい、それに胸のあたりがしめつけられるような圧迫感が、彼を絶えず襲っていた。はじめのうちはそのうちよくなるとたかをくくっていたが、その感覚は時がたつごとにひどくなる一方だ。ラドアが時折心配そうに声をかけてくれるが、ディングはつとめて平気なふりを装う。指名されてまで与えられた仕事を、たかだか調子が悪いなどという事情で中断してはならない。なにより、指名してくれたラドアに悪い──ディングはディングなりの職業意識で堪えていたのである。
が。
(大丈夫かなあ。なんなんだろう、これ)
いつもは楽観的なディングも、さすがにここまでひどい調子だと不安にかられる。とはいえ、夜休めばなんとかなるだろうという希望も持っており、状態の割には深刻ではない。
「ディングさん」
ラドアがそっと声をかける。
「辛そうですね」
「あ、大丈夫」
元気を装ってみせるディングをラドアは手で制する。
「とても大丈夫には見えませんよ。とりあえずこのあたりの建物で一晩休み……」
声がふっと途切れる。はっとして顔をあげたディングの目に写ったのは、ラドアの背後で生命ある霧のようにふくれあがる黒い影だった。
(死霊だ!)
ディングの全身に緊張が走る。普段ならば死霊の姿を見たり、出やすい場所がなんとなくわかったりする──とはいえ、察知したディングに可能なのはただ逃げることだけにすぎない──のだが、身体の不調に気を取られるあまりに注意がおろそかになってしまったようである。
「ディングさん、伏せてください」
覆い被さろうとするかのように膨れゆく死霊を前に、ラドアはディングをかばうように立つ。ディングは反射的に身を伏せた。
(ラドアさん、どうするんだ?)
ディングに背を向け、死霊に向かって立つラドア。長くつややかな黒髪が、沈みゆく夕日の光を受けてあかね色に輝く。
ラドアはすっと片手を上げ、なめらかな動作で手を動かす。それはさながら宙になにかを描いているように見えた。まもなく手の動きが止まり、澄んだよく通る声が廃墟に響き渡る。
(なんだ? うわっ……!)
ディングの目の前で、死霊の霧の中に光が生まれる。小さな光の玉は急速にその大きさを増し、霧を飲み込んでいく。まぶしいぐらいに光があたりを満たし、やがてふっと消える──その後に、死霊はもはや残されてはいなかった。
「お怪我はありませんか」
ゆっくりとラドアは振り返る。ディングは急いで立ち上がった。
「平気平気。今のって魔法? すごいなあ」
「ええ」
ラドアは曖昧な微笑を浮かべる。魔法に関する知識をある程度持っていれば、ラドアの使った術が大陸ではほとんど見られないものであることに気づいたかも知れない。だがディングは魔法についてはまったく知識がなかった。
レーギス大陸ではさまざまな流派の魔法が伝わっており、日常のまじない程度のものから国家が天候や自然の管理に利用するような大がかりなものまで、目に触れる機会は決して少なくはない。魔術図書館も、そういった魔法全般の研究機関として知られている。
だが誰もが魔法を使えるわけではない。機械を扱うことができる者とできない者がいるのと同様、魔法の扱いにも向き不向きがある。ディングは──少なくとも彼の記憶のある数年間は──魔法とは縁のない生活を送っていたし、とりたてて関心もない。持ち前の順応性から、特に魔法に対して拒否反応を示すわけではないが、彼にとってみれば、よくわからないものはみな魔法だった。
「……ともかく、このあたりで夜明けまで休みましょう。地下遺跡に夜入るのは危険でしょうし」
「そうだね」
ディングは薄暗くなりかけた廃虚の中で、まだ傷みの進んでいない建物を探す。大陸でも北部にあたるこのあたりは、初秋といえど夜にはかなり冷え込む。寒さをしのげる場所が必要だった。幸い石づくりの堅牢な建物がいくつも残っており、一夜を明かすにはさほど不自由はなさそうだった。
かつて集会所だったとおぼしき建物を仮の宿りに定め、眠る場所を整える。めまいと胸の苦しさにいつもの調子が出ないとはいえ、ディングは慣れた強みで手際よく片づけていく。まだ使える暖炉に火を入れ、一通りの寝床をしつらえたディングは、疲れきったようにその場に座り込んだ。
「……どうしたんだろう。こんなこと、今までなかったんだけどな」
自分の身体に何が起きているのかよくわからない。普段は楽観的なディングも、さすがにまる一日不調が続くと不安になってくる。
「ディングさん、ちょっといいですか?」
ひょっこりとラドアが姿を現わした。
「これを寝床のまわりに吊ってみましょう」
ラドアが手にしているのは、大きな目の細かい網のようなものだった。
「これは蚊帳といって、東方大陸の少数民族が虫除けに使っているものなんです。これで寝床を覆うんですよ」
言いながらラドアは手早く石づくりの天井から吊り下げ、ディングの分の寝床をすっぽり覆ってしまった。
「あ、でもここはあんまり虫いねえし……」
「まあまあ」
ラドアは半ば強引にディングを中に押し込む。
「これは少々特別製でして、除けるのは虫だけではないんです」
「って……え?」
ディングはきょろきょろと周囲を見回す。
身体が軽くなったような気がした。
「これは?」
それまでディングを襲っていた重苦しい感覚が、少しだけやわらいでいる。何がどうなっているのかわからないが、この「蚊帳」とかいう代物のおかげであることは確かなようだ。
「どうです? 少しは楽になったでしょう?」
「う、うん」
うなずきながらディングはあれ、と思う。ラドアにはディングの調子の悪い原因がわかっているのだろうか。
(まあいいか、おかげで眠れそうだし)
そうしてディングは浮かびかけた疑問をすぐ忘れてしまった。