トラップを解除し、さらに進んだ奥は、不気味なほど静まり返っていた。
鼠や蝙蝠の姿も見あたらない、死の静寂に満たされた空間。
ドーム型の天井になっている広間があり、そこから八方に細い道が延びていた。道のわきには小部屋がいくつもあり、どうやらその中には棺がおさめられているようだった。
「ラドアさん、わかる?」
ガルトのひそめた声は、それでも地下遺跡の壁に響きわたる。
「ええ。大勢の死霊がいますね」
「来たな……」
ガルトが舌打ちまじりに言う。侵入者を察知したのか、そこかしこににじみ出るように、黒い死霊の影が現れていた。
「どうしますか?」
「……」
返事の代わりに、ガルトはシンボルを描き、発動させる。
「前進」のシンボルしか描いていないにもかかわらず、ガルトの正面からにじり寄ってきていた影が消滅した。
「さすがですね」
ラドアがつぶやく。
「前進」のシンボルは描くのが簡単だ。「ウドゥルグ」の力を使うことのできる彼は、死霊を浄化するのに「ウドゥルグ」のシンボルを描く必要がない。「「前進」のシンボルを描いて発動させるごとに、狙った死霊が浄化されていった。
「こちらです」
ラドアの指し示す方向の死霊を一掃し、なおも追いすがる黒い影を振り切って、二人は小道の一つに駆け込んだ。
細い道は下り坂になっている。坂を下りきったあたりに閉ざされた扉が見えた。
「あの扉の向こうに彼女がいるようです」
「そうか……」
ガルトは答えつつ、遺跡の壁にそっと触れる。石づくりの墓所。長年にわたって様々な人々が埋葬されてきたのだろう。
彼には、摂理を乱す力の渦の存在が感じられる。生命をあるべき流れから遠ざけ、ゆがめる力。その力が生命の一部たる人の意志によって産み出されることも、彼は知っている。
(人って……死から逃れたいものなんだよな)
痛いほどにそれがわかるのは、自分もまた、同じ人間だからだ。
(だからといって摂理を曲げてまで死なないのは正しいことじゃない。でも……)
ガルトは、生命のあるべき姿を知っている。だが、それが人間にとって受け入れがたい現実になりうるということも、身を持って知っている。
だからこそ、それに抗ってしまう人間が、悲しく思えてならない。
まして抗う意味すら忘れ、ただ留まるよりほかにないさまは、哀れにすら思える。
生命の流れの中にとうに還っているべき彼らが、なぜここに留まっているのか。
嘆き、苦悶、懊悩──そんな声が死霊の気配とともに立ち上ってきているような気がする。
「額飾りが死霊に力を与えてるって、さっき言ってたよな」
「ええ」
ラドアが首をかしげるようにして、こちらを見る。
「取り戻したら、奴らはどうなるんだ?」
「もとの状態に戻るでしょうね。ここから出られない、ただの死霊に。ですが、それがなにか?」
「……いや、いいんだ。行こう」
ガルトは頭を振る。
放っておけないと思った。力を失い、あるべからざる姿でこのまま嘆き続けるであろう死霊達。彼らから額飾りを取り戻し、素知らぬ顔をして立ち去ってしまうことなど、できるのだろうか。
ダーク・ヘヴンの暗殺者であった頃の彼ならば、そんなことは考えもしなかっただろう。ケレスのガイド、ディングには、自分に何かできる可能性など思いつかなかっただろう。
二つの心がひとつになったことの意味を、彼はまだ知らない。
扉を開けると、死霊の気配がさらに圧倒的な波となって二人を襲う。額飾りによって力を増し、島の住人達を滅ぼした、かつて人であったものたち。
「く……」
ガルトは二、三歩よろめいた。 ただ死霊がうごめいているだけではない。
あるべき法則の失われた世界が、彼の目の前に広がっている。それが全身で感じられた。
身体の奥底から、なにかが激しい勢いでわき起こってくるような気がした。
摂理の歪みに反発し、正そうとする力。
だが、ガルトは自分の身体からその力が放たれるのを堪えていた。一気に解き放ってしまえば、死者を浄化するのみならず、生きている者を死に追いやってしまいかねない力だ。だからこそ、うかつに放つわけにはいかない。
それに、彼は感じ取っていた。
摂理をゆがめるほどの、彼らの苦しみを。
嘆きと呪詛が行き場を失い、渦を巻くようにこの地の底でのたうつ。それが摂理の歪みをもたらし、彼らを呪縛し、そして死霊達は、さらに行き場を失って呪詛をつのらせるのだ。
(やめろよ)
我知らず、そんなつぶやきが洩れる。
(やめろよ、もう十分だろう?)
聞こえるはずもない。だが、そうつぶやかずにはいられなかった。
悲しみだろうか、それとも憐れみだろうか。
いたたまれない。
そう、こんな苦しみの声を、俺はずっと聞いてきた……。
いつからかわからぬほど、ずっと。
だからこそ。
(もう終わらせろよ……楽になってくれ)
額が熱い。頬を伝うのは、涙だろうか。
(俺が送ってやるから)
そう思った瞬間。
すべてが反転したような気がした。
ラドアはその様子を無言で見守っていた。
死霊を死にきれない存在としてとどめる場に、ガルトが向けた悲しげなまなざし。その姿に変化が起こりつつあることに、おそらく彼自身は気づいていないだろう。
額の中央──ちょうどほくろのあるあたりに、縦に裂け目が走る。
少しずつ裂け目は左右に拡がる。裂け目からは血が流れ、鼻筋を伝って落ちる。
そして……。
目が開く。
ヘスクイル島に伝わる破壊神 「ウドゥルグ」の像と同じ、闇色の第三の目が、ガルトの額に開きつつあった。
「俺が送ってやるから……」
ほとんど声にならないつぶやきと同時に、完全に開いた目。
死霊たちが、瞬時に消え失せた。
急に、なにもかもが理解できたような気がした。閉じていた目を開いたかのように、それまではっきり見えなかったものが見える。生命の流れがあるべき姿に正され、島を覆っていた死の気配も消え去ったのが、はっきりと感じ取れる。彼にはそのことが至極あたりまえのように思われた。
ガルトは、部屋の中央へ歩み寄る。今まで気がつかなかったのが不思議なくらいに、彼にとって特別な光を放っているものが、そこにあった。
銀色の、翼ある蛇をかたどった額飾り。
「イーシュ」
彼はその名を──それまでに聞いたこともないはずの、額飾りにつけられた名を呼ぶ。
額飾りが、呼びかけに答えるかのように、ぴくりと動いた。生きている蛇のように頭をもたげ、赤い目をガルトに向ける。
「待たせたな」
その言葉に答えるように、蛇の小さな身体が跳躍する。まっすぐに飛び、ガルトの腕にするりとまきつき、そのまま動かなくなる。こうなると、ただの蛇をかたどった腕輪にしか見えない。
「……怖かった、ってさ」
苦笑混じりにガルトが言う。
「聞こえるんですか」
「ああ……だめだな、これで一気にウドゥルグに近づいた気がする」
「ガルトさん」
静かに、淡々とラドアはその言葉を口にした。
「あなたは、ウドゥルグなんですよ」
「……」
ガルトの目がわずかに険しい色を帯びる。だがすぐに彼は首を振り、自嘲気味に言葉を吐いた。
「は……今までの苦労は無駄だったってことか」
「逃げていても解決にならないことは、あなたが一番よくわかっていることでしょう?」
「……」
「あなたはウドゥルグですが、破壊神として存在するかどうかは、あなたが選ぶこと。私は……あなたがその力を意志のもとに置くことができるようになってもらいたかったんです。望まない形で、望まない力を使ってしまわないためにね」
そのために。
この道具屋はガルトを地下遺跡へといざない、分かれた心を一つにさせ、額飾りを取り戻すようにし向けたというのか。
「なぜ……」
問いを発しかけて、ガルトははっとしたようにラドアを見つめる。額の目がまっすぐにラドアをとらえていた。
「そうか。あんたも……俺と同じなんだ」
「……」
ラドアの目に、一瞬、ひどく複雑な表情がよぎった。
「ヴァリエスティン、というシンボルがありました。ウドゥルグと同じように摂理を司る、ロー・シンボルと呼ばれるものです」
「ヴァリエスティン……」
初めて耳にするシンボルの名だ。
「因果の非可逆性を表す──選択された結果は覆せない、ということなのですが、ウドゥルグと同じように、継承する者達の中で徐々に神格化されていきました。ヴァリエスティンは、左手で過去を、右手で未来を読み、運命の糸を操る『運命の神』なんです」
「だからなのか……」
ヘスクイル島の出身でないにも関わらずシンボルを操り、ガルトの過去を知っていたラドア。運命の神として信じられたシンボルの力を持つ者。
「俺がこうなることも、あんたには見えてたわけだ」
「いいえ」
ラドアはきっぱりと否定する。
「私は、あなたに右手で触れたことはありませんよ。それに……私に見える未来は、蓋然性の未来なんです」
「がいぜんせい?」
「起こりうるあらゆる未来。どこで誰がどう選択するのかで変わっていく。未来は決定されてなどいないのですよ」
「それじゃあ……」
ガルトがもし、意志によってウドゥルグの力を制御できなかったとすれば。
シガメルデのように、この島もまた死に支配された地になっていたのかも知れない。その時、ラドアは無事で済んだろうか
「ここに来たのも、やばい賭けだったかも知れないんだ」
「……かも知れませんね」
いつものように、ラドアは微笑する。内面を垣間見せない、悠然とした笑み。ラドアの表情からこの笑みが消えたのを、ガルトは見たことがなかった。
「ですが、道具屋のお節介はここまでです。あなたの力をどうするかは、あなたの意志で決めていくことですから」
「そうだな……」
ガルトはふと遠い目をした。
あの日から、ずいぶん遠くへ来てしまったような気がする。
シガメルデを壊滅させ、島を脱出し、ケレスで二つの心を抱えて生きてきた。もう4年近くになるだろうか。
だが、まだなにも変わってはいない。暗殺者達は任務を遂行し続けているのだろうし、いつもきまった時刻に感じる、破壊神の復活を願う祈りと捧げられた生贄の血の気配も、絶えることはない。
何をするべきか、何を望むべきか。この力を、いかなる意志のもとに支配すべきなのか。
答えは、これから自分が見つけていくしかない。
地下遺跡の奥底で、破壊神の姿をした青年は、その重みをひしとかみしめていた。
(end)
あとがき
パソ通時代のTRPG風リレー小説の会議室で進めていた部分を、オリジナル設定に改変したものです。当時の会議室でのやり取りが他の人達のキャラとかかわってくるので、今まで独立した小説にできませんでした。人格の統合と額の目とイーシュと、全部いっぺんに詰め込んでしまったのはやや急ぎ過ぎだったかも。
これ書かないと話がまとまらない、というターニングポイントに位置する話です。「シニフィエ」だけなら多重人格の話をする必要はなかったわけだし。
ちなみにディングは、暗殺者として妹ぐらいしか理解者のいない生活を送ってきたガルトにとっての「こうありたい自己」(エリアといる時の笑顔ができる自己)の投影。抑圧していた自己イメージを顕在化してしまったせいで、世話好き度が大幅にアップした……ということは、きっとガルトは少年時代「人に親切にして喜ばれてみたいのに暗殺者だからできない」ことに悶々としていたに違いない!?
……誰も見てないと思って好きなこと書いてるな私……。