守護獣の翼  1 防壁の穴

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 少年が一人、高くそびえ立つ塀の近くにたたずんでいた。年のころは十四、五歳。背の高さのわりにはまだ細い体つきが、幼さの片鱗を残している。
 村と外を隔てる石造りの頑丈な防壁にもたれ、手にした本をぱらぱらとめくる。手書きの絵に添えられた説明を繰り返し目で追い、読みふける。赤みがかかった褐色の瞳は、真剣そのものだ。
「お、いたいた」
 少年の姿を見つけ、そうつぶやく少女が一人。長い髪と裾の長い服には似合わぬ、いたずらっぽい笑みを浮かべ、少年の視界に入らぬよう、足音をたてずにそっと忍び寄る。
 あと数歩のところまで近づく。少年が本から目をあげる気配はない。
 少女が少年を驚かせようと、息を大きく吸い込んだ。
 その瞬間。
「メイエイ、どうしたんだ?」
 少年が顔もあげずに口を開く。名を言い当てられた少女は、吸い込んだ息をため息に変えて吐き出した。
「もうユァンたら、なんで気がつくのよ。見てなかったくせに」
「笑ってただろ? 聞こえてた」
「う……」
 今度こそ気づかれずに少年の――ユァンのそばに近づいてやれたと思い、満足の笑みをかみ殺していたのは確かだ。メイエイはとっさに返せず、口をとがらせる。
「ちぇっ、ユァンの勘の良さにはかなわないや。やっぱり『盾』だからかな」
「……かもな」
 ユァンは本を閉じ、メイエイの方を向く。何か用か、と言おうとしたのだが、先に口を開いたのはメイエイだった。
「ねえねえ、それ新しい本? また覚えてるの?」
「まあね」
 ユァンは苦笑混じりに答える。幼なじみのこの少女は、いつもユァンよりもほんの一瞬だけ、話し出すのが早い。いつも彼は機先を制され、会話の主導権を握られる立場にあった。まして、もう一人の幼なじみ、村長の息子であるウェイが加わると、一番年下のユァンが口をはさむ隙などほとんどなかった。
 返事のかわりにユァンは、メイエイに今しがたまで読んでいた本を手渡す。
 糸で綴じられた中身はすべて手書きである。ユァンの家――「盾」と呼ばれる職業の家系――に伝わるものだ。書かれているのは、「獣」の姿や生態、出会った時の対処法である。
 「獣」。形や大きさ、性質を問わず、人間に飼われていない生き物の総称だ。防壁の中には「獣」はいない。メイエイが珍しがるのも無理はなかった。
「こんな『獣』もいるんだ……防壁の外って」
 驚いたような声をあげるメイエイの横から、ユァンも本をのぞき込む。メイエイが指しているのは、深紅の長い体に触手のような三本の角を持つ生物だった。体のわりに大きな頭が不格好である。
「ああ、これは朱虫って言って、森によくいるらしい。形は変だけど小さいし、臆病な性質なんだけどな」
「小さいって?」
「このくらい」
 ユァンは親指と人差し指で長さを示してみせる。指一本分もない長さだ。
「なんだ。絹虫みたいなものなのね」
「そうだな。でも群れるとやっかいらしいよ」
「見たことあるの?」
「いや。でも親父が森で手を焼いたって」
「あのおじさんでも、困ることあるの?」
 メイエイは目を丸くし、笑い出す。厳しいことで有名なユァンの父が不格好な虫に囲まれている姿でも想像したらしい。
 高い防壁に囲まれた村を一歩出れば、そこは「獣」の領域だ。各地に点在する村を結ぶ街道も、必ずしも安全ではない。まして陸地の大部分を埋めつくすと言われている森は、人間などがうかつに足を踏み入れてよい場所ではなかった。
 それゆえに、この真影村には何人かの「盾」がいる。「獣」の習性に精通し、彼らのなわばりを荒らすことなく通る方法やなだめ方を心得て、村人の安全を守る職業だ。
 まだ十五歳のユァンも、幼い頃から両親に「盾」としての教育を受けてきている。「盾」が無力であれば、それは村人の危機に直結する。だからこそその教えは厳しい。
「……で、何か用があったんじゃないの?」
 話が一区切りしたと見て、ユァンはさっきから気になっていた言葉をやっと発する。 
「あ、そうそう。あのね、ウェイが面白いところを見つけたんだ。それで一緒に来てくれないかって」
「面白いところ?」
「ほら、ここんとこ防壁の修理してたじゃない。それでね……」
 くすくすと、彼女は笑いをこらえる。
 ユァンは少し考え、答えた。
「後で行くよ。今日中に覚えておかないといけないところがあるんだ」
「じゃあ、村長さんの畑の裏手まで来て。なるべく早くね」
 小走りに去っていく彼女を見送り、ユァンは再び本を開く。ひとくさり読んでから、ふと思い出したように顔を上げた。
(何だったんだろう?)
 メイエイの、いかにも楽しいことを見つけたという表情。
 まだ成人の儀を迎えて大人の仲間入りをしていないとはいえ、ウェイもメイエイも、もちろんユァンも、好きに遊んでいてよいわけではない。ユァンには「盾」の後継者としての修行や勉強があったし、「長」の息子のウェイや「織師」の娘のメイエイも、それぞれが各々の将来の仕事のために、そして閉ざされた村の生産活動を守るために、大人達よりも軽いものとはいってもそれなりに責任のある仕事を任されている。
 こんな時間にわざわざ誘いに来たということは、仕事もそっちのけになるようなものでも見つけたのだろうか。
 しばらく考えてから、ユァンは彼女が走って行った道の先に顔を向けた。まるで何かを感じ取ろうとするかのように、軽く目を閉じる。
 そよ風とは明らかに異なる風が、ざあっと梢を揺らして駆けていった。
「……!」
 突然、ユァンは目を開く。
 そして走り出した。
「あいつら、何ばかなことを!」
 走り出してから本を手に持ったままなのに気づき、帯につけた物入れにしまい込んで、再び走る。
 細い道はやがて防壁からそれ、石畳の敷き詰められた広い道へと合流する。村の中心部、わき水をたたえた池を囲む広場を抜け、果樹園と畑のある区画に入る。
 「獣」から身を守り、防壁の中で暮らす人間の村。大概のものが村の中でまかなわれる。水場も畑も家畜の小屋も、何もかもが防壁の中だ。この村では、村人の多くは一生防壁の外に出ない。
 それだけに、少年の足にはちょっとした広さだ。
 息をきらしながらたどり着いたのは、村の西側、村長の家と畑のあるあたりだった。
 ユァンは周囲を見回そうともせず、畑の裏手へ続く道をたどっていく。
 目的地がはっきりとわかっているかのように。
 裏手の草むらは防壁に接している。さっきまで防壁の修理をしていたというウェイのものなのだろう、のみや鎚、防壁の穴を埋める石などが置いてあった。
 ユァンは草むらをかき分け、その奥にあるものを隠すかのように立てかけられていた板きれを取りのける。
 防壁に、穴があいていた。人ひとりがなんとか通れそうな大きさである。
 ユァンは小さくため息をつき、ためらいもせず穴をくぐった。

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