守護獣の翼  1 防壁の穴

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 穴の向こうには、うねるように広がる大地と、あざやかな緑の木々。
 森と呼ばれる領域だということを、「盾」であるユァンは知っている。父に連れられて来たことが一度か二度あったが、一人で来たことはまだない。
「あ、これって鮮朱の葉っぱじゃないか?」
 ウェイの声がする。見るとウェイとメイエイが、一本の木にからみついた赤いつる状の植物を調べているところだった。
「え、ほんと?」
 メイエイがのぞき込んでいる。鮮朱はあざやかな赤い染料になるが、村の中では栽培できないためにきわめて貴重だ。二人とも自生しているのを見るのは初めてのはずだったし、糸を紡ぎ、染めて織る「織師」のメイエイが興味を持たないはずはない。
「すごいや、こんなに村の近くにあるなんて」
 ウェイが顔を輝かせ、何気なくつるを引っ張る。
「やめ……」
 ユァンが止める前に、梢からぱらぱらと何かが落ちてきた。
「?」
 ウェイが首をかしげて見上げようとした瞬間、握り拳ほどの大きさのものが大量に降り注ぐ。まるでウェイが引っ張ったことが合図になったかのようだった。
「きゃぁっ!」
 メイエイが悲鳴をあげる。
 落ちてきたのは、見たこともない生物だった。指よりもやや太い芋虫のようなもの。濃赤色の体の先端に触手のようなものがついている。それは、メイエイとウェイの頭上から降り注ぎ、膝ほどまでも埋め尽くす。
「な、なんだこれ……」
「やだー、髪に引っかかってる」
 ウェイは呆然とつぶやく。メイエイは赤い生き物を長い髪から振り落とそうとするが、ぶよぶよとした体が髪にからみつき、なかなか取れない。
 それは落ちてはきたものの、あまり自分から動くことはないようだった。とはいえ、びっしりと大量に足にしがみついている様子は、なんとも気色悪いものである。
(仕方ないな)
 ユァンは腰につけた巾着から茶色の袋を取り出す。
「二人とも目をつぶって!」
 ユァンの叫び声。次の瞬間、袋に入っていた粉が二人に浴びせかけられる。手で顔をかばいつつ目をあけたウェイは、足下を見やって目を丸くした。
 赤い生き物が、その虫のような図体からは想像もつかぬ速さで、ざっと退きつつある。どうやらユァンがかけた粉をひどく嫌うらしく、はらはらと落ちる粉末を避けているようだ。ウェイの足やメイエイの髪にまとわりついていたものも、ぽとりぽとりと地面に落ち、慌てたように粉を逃れてその身をくねらせる。不釣り合いに大きい頭の重みで転がるものもいた。
「今のうちに、こっちだ」
 二人はユァンの方に駆け寄る。
「いやあ、助かったよ」
「早かったね、ユァン」
 二人に返事をするよりも先に、ユァンは粉の残りを地面にまく。赤い生き物を近づけないようにするためだ。言いたいことは山ほどあるが、作業を中断するわけにはいかない。
 まき終えてから、きっと顔を上げた。
「あのな……」
「ああ、はいはいわかったわかった。確かに俺が軽はずみだったよ、うん」
「……」
 言おうとしたことをウェイにすっかり先取りされ、ユァンは黙り込む。むっつりとした顔で、粉――岩塩を細かく挽いたもの――の入っている袋をしまい込んだ。
 うかつに森に足を踏み入れてはならない。それは、村の大人達がしつこいほどに繰り返すことだ。
 森は「獣」の領域であって、人のいる場所ではない。防壁の中の村が「獣」のいる場所ではないのと同じように。
 うかつに踏み込めば、こんな目に遭う。
「今のは何?」
 メイエイが尋ねる。
「朱虫。この時期の鮮朱の周りに大量発生するんだ。鮮朱の色を赤くするのがこいつらしい」
「あれも『獣』なの?」
「ああ。さっきの本に書いてあったろ?」
「だから、鮮朱は村では育たないんだな」 
 ウェイが枯れ枝で朱虫をつつきながらつぶやく。あまり懲りているようには見えない。
 その様子を眺めやって、ユァンは再びため息をついた。
「まったく、危険だってわかってないのかよ? 森なんだぞ、ここは」
「だからユァンにも来てもらおうってさ。そしたら安全でしょ? ユァンだって実際に森で『獣』を見ないとわかんないことがあるって言ってたじゃない」
 メイエイが屈託なく笑う。
「そ、それは……」
 そういう問題ではないはずなのだが、とっさに言い返すほどユァンは弁が立つわけではない。
 森は人間の領域ではない。これは村の常識だ。
 なのにこいつらときたら、全然わかっちゃいない。
「だったら、俺が来るまで待って……」
「いやあ、そうなんだけどな」
 ウェイが人のよい笑みを浮かべる。ユァンよりも年は二歳上だが、背は幾分小さい。顔立ちもさほど年上に見えないせいか、ユァンは彼に対してほとんど対等に話してしまう。
「のぞいてみたら天気もいいし、なんか気持ちよさそうだったからさ。待ちきれなくってなあ」
「……」
 ユァンは絶句した。
 「長」の家に生まれ、次の村長を継ぐことが約束されている、村でも有数の聡明な少年。その知識も思慮深さも、大人をもしのぐほどだと言われているし、人当たりのよい笑みとのんびりした話しぶりが、親しみやすさを加えている。そんなウェイの欠点らしい欠点といえば、これだ。
 好奇心が強い。とにかく強い。調べたいものをそのままにしておくことなど、彼には無理な相談だった。語り伝えと書物でしか知らない「獣」だの森だのといったものに、興味を示さぬはずもない。
 しかもメイエイがいる。メイエイは「長」の跡継ぎの許嫁候補となる家の娘だが、ウェイの好奇心を面白がり、あおり立てるところがあった。二人が揃ってしまうと、物静かで一人修行や勉強に明け暮れているようなユァンではとうてい太刀打ちできない行動力を発揮する。
 しばしば、危なっかしいほどに。
 だから放っておけないのだ、二人とも。
「……だいたい、防壁の修理してたんじゃなかったのか?」
「ああ、あれ、石がぐらついてたから揺すってみたら、ぼこっと取れてさあ」
「それは壊したっていうんじゃ……」
「まあまあまあ、あとでちゃんと直すってば」
 ユァンはこめかみを押さえた。このウェイが、素直に防壁を直すはずはない……。
「……とにかく、俺がいない時に森に来たりするなよ、頼むから」
 止めても、どうせ森にふらっと出てくるに決まっている。ならば最初からこう言っておくのが一番ましだろう。
「メイエイも止めてくれよな」
「いいじゃん、こうでもしないと私なんて一生村の中よ。防壁の外がどうなってるのか知らないままなのはやだな」
「だから、危ないって……」
 さらに何かを言いつのろうとしたユァンは、ふと口をつぐむ。
「……どうしたの?」
 メイエイが尋ねるが、ユァンは黙って一点を見据えたままだ。
 ウェイとメイエイはユァンの視線を追う。
 茂みの中で、何かがきらりと光った。
「ねえねえ、なあに? あれ」
「……」
 ユァンは真剣な表情で、その正体をみきわめようとしていた。おそらくなんらかの「獣」の目だ。こちらをじっとうかがっているのは、警戒しているからか、それとも狙いを定めているからなのか。
 メイエイにしろウェイにしろ、ユァンほど「獣」の習性についての知識はない。「獣」と出会ってしまった村人を守るのは「盾」たるユァンの役目だ。
 だからこそユァンは、目の前の「獣」の動きに全神経を集中していた。
 二人が事態をあまり把握していないことに気づかないほどに。
「生き物かな?」
 ウェイがつぶやき、それに答えるようにメイエイが光るものに向かって小石を放る。
 がさりと音がして、はっと気づいた時には遅かった。
 背筋が冷たくなる。たがいに様子をうかがっている時に「獣」を刺激するなど、「盾」の常識では考えられないことだ。だが、メイエイは「織師」であって「盾」ではない。そんな常識など知るはずもなかったし、防壁の外に出たこともないから「獣」がどんなものかさえ知らないのだ。
 ぐるる、と低いうなり声。
「二人とも下がって!」
 低いがはっきりとした声で、ユァンは告げる。その声の緊迫感と、茂みから聞こえるうなり声に、二人はやっと気づいたようだった。
「うそ……『獣』?」
「いいから!」
 今は「獣」をなだめることが先だ。うなり声と目の動きから、おおよその種類の見当はつく。
(たぶん水蜥蜴だ。ならば……)
 ユァンは小声でウェイとメイエイに指示を出す。
「音を立てないで。防壁に寄るんだ」
「……」
 二人はうなずき、足をしのばせて防壁に向かう。二人を背中でかばいつつ、「獣」から目を離さずに、ユァンはじりじりと後退した。
 水蜥蜴は川べりに群をなして住む肉食の「獣」である。人の背ほどの体長しかないが、鋭い歯と太い尾の一撃は強力だ。武器なしで人が太刀打ちできる相手ではない。
 慌ててメイエイの後を追ってきたユァンは「盾」の正装ではない。だから、戦うための武器を持っていなかった。そもそも村の外で「獣」と戦うための武器など、普段村の中で持ち歩く必要はないのだ。
 なんとか、やりすごすしかない。
(たしか、匂いで相手を識別するはずだ)
 ユァンは本から学んだ水蜥蜴の習性を思い出す。二人を防壁の際に立たせ、かばうように立ったまま、じっと様子をうかがった。風向きが変わり、彼らの匂いが水蜥蜴に届いていないのを確認する。
 茂みの中の水蜥蜴が標的を見失い、うろうろとあたりをさぐる音が聞こえる。
 どれぐらい、そのままじっとしていただろうか。
 水蜥蜴の立てる音は、次第に遠ざかっていった。その様子を注意深くうかがっていたユァンが、やがて、ウェイとメイエイに告げる。
「行ったみたいだ」
 ウェイがほっと息をつく。ユァンはそろそろと茂みに近づき、「獣」の気配がないことを確認する。
「今のも『獣』なのね」
「人間に飼われていないものはみんな『獣』って言うんだ。人間よりも強いものもたくさんいるよ」
 そんなメイエイとウェイの会話を背に、ユァンは草や地面、木の幹や葉の様子を手早く調べる。「獣」が数多く現れる場所であれば、ウェイ達をとどめておくわけにはいかないからだ。
 ややあって、ユァンは顔を上げる。
「……このあたりは肉食の『獣』のなわばりにはなってないみたいだ。でも、そこの木から向こう側には行かない方がいいな。川から上がってきた、さっきの水蜥蜴みたいな奴が出てくるかも知れないし……」
「ってことは、その木より手前は大丈夫なんだ」
「今のところはね」
 そう答えてから、ふと気づく。
「あの、ウェイ。ちょっと聞くけど、まだ森にいるつもり?」
「えっ?」
 聞くまでもないことを、とでも言うように、ウェイはにこにこと首をかしげてみせる。
「……」
 ユァンは絶句し、その場に立ちつくした。この程度であきらめるようなウェイではないというわけだ。
「大丈夫だよ。今度からは気をつけるから」
 メイエイの言葉に、さらに目の前が暗くなる。
 この二人がそろっていて、大丈夫なことがあろうか。この短時間に二度も肝を冷やす真似をしてくれたというのに。
「……危ないとか、思わないわけ?」
「いや、それは思うけどさ。それで防壁の中に閉じこもってるのももったいないんだよなあ」
「そうだよ。それに森ってはじめて見たけど、きれいなところじゃない」
 メイエイは両腕を広げ、空を見上げる。
「村にいない生き物が、ここで生きてるんだよ。きっと、まだ人が見たことのないものもたくさんあるんだろうな」
「そりゃそうだけど……」
 どうしてこうも好奇心が強いのだ、この二人は。
 大概の村人達は、防壁の外になど関心を示さない。「獣」のことなど知らなくても、村の中では不自由なことなどないのだ。ユァンのような「盾」でもなければ、森に足を踏み入れることなど想像だにしない。
 もしかするとユァンの読んでいる「獣」の本が、二人に好奇心を芽生えさせてしまったのかも知れない。だがそれならそれで、本で満足しておいて欲しいものだと、ユァンは思う。
「まあ、今日のところは仕事に戻らないといけないかな」
 先刻から幾分位置の変わった太陽を見やって、ウェイが言う。
「そっかー、じゃあ今日は戻ろうか」
 メイエイは残念そうに言い、防壁の穴に向かう。ウェイがその後、最後に「今日は?」と言いたげな目をしたユァンが続く。
 三人はぞろぞろと防壁の穴をくぐり抜けた。板きれと草で覆って、穴が見えないようにする。
「大人に気づかれないようにな」
「うん、また来ようね」
(……塞いだほうがいいと思うんだけど)
 ユァンがそう言う隙を、ウェイとメイエイは与えてくれない。
 めいめいの仕事に戻る二人の後ろ姿を見ながら、ユァンは思う。
(まったく、心配させる……)
 なんだかんだと言いつつも、ユァンは二人のことを気にかけている。村の安全を守る仕事に携わる者だからなのかも知れないが、彼らと一緒に他愛ない話をしつつ過ごすのが好きだということも大きい。同年代のどの子供達よりも、二人は話しやすく、一緒にいて気兼ねせずに済んだ。
 それにしても、彼らが森への通路を見つけてしまったとは。
 これで、心配の種がまた増える。
(さっきだって)
 ユァンはふと思う。
(俺が人間じゃないからよかったようなものの……)
 そう思った瞬間、彼は頭を振って顔をしかめた。
 考えたくない、忌まわしいことがふと頭に浮かんでしまった、というように。

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