自分は、人間ではない。
それはずいぶん昔から知っていた。
魔獣という、きまった形をもたない存在であることも、少し前に知らされた。
だが。
彼は、自分が何であるのかをほとんど考えたことはなかった。
村を吹き抜ける風、降り注ぐ日の光、空にかかる虹。
そんなものになれたら……と思ったことがあるぐらいだった。
そして、今。
「ユァン?」
ウェイは驚きに目を見開いたまま、それに向かって呼びかける。
返事はない。
「なんだよ……どうなったんだ?」
ホンルは呆然とした表情で、手にしたままの短剣とそれを交互に見つめていた。
二人の視線の先にあるもの。
ユァンが戸惑いの表情を浮かべ、見る間に変化していったもの。
それは宙に漂う、一対の翼だった。
日の光を浴びてきらきらと虹色に輝き、そよ風にたゆたう。
「これが……ユァンの本当の姿なのか?」
「魔獣」という名が似つかわしくないほどに美しく、そして、はかなげな翼。
それは、今にも消えていきそうに頼りなく、宙をふわふわと漂っている。
虹色の翼に、ウェイが手をさしのべ……そして、はっとした表情になった。
「ばかな……」
ウェイはホンルの方を向く。
「どうなってるんだ……消えかけてるぞ」
「わ、わかんないよ……おいらだって……」
ホンルは明らかにうろたえた様子で答える。彼が望んだ状況ではないのは瞭然だった。
かつてユァンであった翼は、虹色に輝きながら少しずつ広がっていきつつあった。同時に、向こう側が透けて見えてきている。まるで、空気にとけ込もうとしているかのようだった。
「ユァン、どうした? 返事をしろよ!」
珍しく狼狽した声で、ウェイは叫ぶ。
「ユァンっ! 聞こえてるか? おいっ」
「ダメだ……届いてないよ……」
「なんだって?」
「どうしよう、このままじゃ消えちゃう……」
「ばかな……」
ウェイは愕然とつぶやく。
「こんなことになるなんて……」
その時だった。
「ああ、ぎりぎりで間に合ったみたいだな」
背後から、そんな声がかけられる。
振り向くと、木々の間から見知らぬ男が顔を出したのが目に入った。「医師」の服装の、大柄な青年。
「あなたは?」
「ランタイという。君の父上から名前ぐらいは聞いているんじゃないかと思うが」
「ほら、前に言ってたじゃない。昔村にいた魔獣の人だよ」
ランタイの背後からひょっこり出てきた顔に、ウェイはさらに驚く。
「メイエイっ? なぜここに?」
「ウェイ君、詳しい話をする前に、ユァンをなんとかしなければならないんじゃないか?」
ランタイが静かに諭す。ウェイは様々の問いをぐっと呑み込んだ。
「ユァンがどうなっているのか、ご存じなんですか?」
「一言で言えば、魔獣の姿を持っていなかった、ということだ。魔獣には二つの姿がある。一つは身近な仲間と同じ姿、もう一つは自分がそうありたいと願う、本当の姿。彼は人間でない自分を考えていなかったんだ」
「それなのに、人間の姿を解かれてしまったのか……」
「ああ。このままだとどんどん拡散して消えていってしまう。彼は風の魔獣だから、空気にとけ込んで散っていくんだろうな」
「そんな……おいら、そんなつもりじゃ……仲間が人間の味方してるのがくやしかっただけで……」
ホンルが声をつまらせる。ウェイはわかっていると言うようにホンルの肩をぽんぽんと軽く叩き、ランタイを正面から見つめた。
「間に合った、と言いましたね」
「ああ」
ランタイは短く答える。
「ただし、君達が望むかどうかだ」
「望まないわけないでしょう? あいつがどんな姿だって構わないけれど、このまま消えて欲しくなんかない」
ウェイはランタイを見上げ、強い調子で続けた。
「お願いです。ユァンを拡散させない方法を教えてください!」
「……」
ランタイはウェイのまっすぐな目を受け止め、微笑した。
「どうやら君とメイエイはいい組合せらしい。つれて来てよかったよ」
「どうすれば……」
「メイエイと一緒に彼の姿を思い浮かべるんだ。はっきりとな。そこのおちびさんは、その姿をユァンに届けろ」
「え、おいら?」
ホンルが聞き返す。
「仲間を減らしたくはないんだろう? さあ、早く」
「……わかった」
ホンルがランタイの手を取る。ウェイは傍らのメイエイとともに、宙にただよう翼を見つめた。
戻って来いという願いを込めて。
何が起きたのか、その時のユァンにはわからなかった。
自分というものがどこまでも広がっていくのが感じられる。どこまでが自分の身体で、どこからがそうでないのか、ユァンにはわからなくなっていた。
風になるのだ、と、彼は思った。
恐怖や不安はない。考えるということ自体が、急速に彼から遠ざかりつつあった。
ユァンという人間の姿をした魔獣は、その存在を失おうとしている。形作られていた身体が支えていた自我もまた、大気に拡散し、消えていこうとしている。
が。
(仲間……)
かろうじて残っている意識のどこかに、時折引っかかるものがあった。
それが仲間なのだと、彼は知っていた。
彼と同じように拡散し、宙をただよう意識のかけら――かつて「魔獣」であったものたち。
紛れた生き物としての寿命を全うしたもの。
人間に狩り出され、自分が魔獣であることも知らぬままに拡散していったもの。
あるいは刃を向ける人間に抵抗し、殺されていったもの。
それらはあてもなくさまよい――だが、一つの思いのようなものを持っていた。
言葉にするなら、守りたい、という思い。
殺され、拡散していったものたちが最後まで抱き続けるやさしさが、見えない形で空に満ちていた。
自分もその中のひとつになるのだ――そう、彼は感じていた。
それはいかにも自然なことのように思える。風になり空になって、あいつらを守ると、ずっと考えてきたのだから。
誰を守ると思ったのだったか。そんな疑問は、彼の身体と同様、宙に散じつつあった。
だが。
(ユァン)
呼ばれているような気がした。もはや音を知覚する耳などなかったし、自分が何かもわからなくなっているにもかかわらず、その呼び声ははっきりと彼のもとに届く。
(ユァン)
それが、自分をあらわす名であったことを、かすかな意識の断片が思い出す。
自分。
そんな存在があったことすら、思い出せなくなりかけていた。
(戻って来い)
戻る?
拡散しかけていた意識が、わずかに反応する。
(一緒に帰ろうよ、私達の村へ)
村。
何かを忘れているような気がする。
強く誓ったことがあった。誰かを守りたいと思っていたはずだ。
(ユァン、俺達の前に戻ってきてくれ)
そう言っているのは、誰だろう。
ふっとひとつの光景が浮かぶ。高くそびえ立つ石造りの塀。その傍らにたたずむ少年。
やや赤みがかかった大きな目でこちらを向き、少し困ったような笑顔を浮かべる。
誰かが戻りたがっている風景。
ひどくなつかしい感じがした。
(そうだ……これは……)
宙にこぼれ落ち、どこかへ消え去ろうとしていたものが戻ってくる。
(……俺の姿)
虹色の風が、一点に向かって収束していった。
気がつくと、ユァンは草地に横たわっていた。背中には地面のごつごつした感触。草が風にそよぎ、肩や頬をくすぐるようになでていく。
湿った土と折れた草のにおい、さわさわと耳を通り過ぎる草ずれと川の流れの音。
(戻って来た……)
目を閉じたまま、彼は全身から感じられる様々な感覚を味わう。
身体を……自分という存在のよりどころを持つ。
ただそれだけのことが、ひどく新鮮で、幸せなことのようにに思えた。
ゆっくりと目を開ける。木もれ日がまぶしく暖かい。
「おかえり」
聞き慣れた、二つの声が重なった。
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