「守護獣の翼」番外編

在の形象

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 ゆるやかにうねる大地に、草木がそこここで茂みを作っている。午後の日射しがきらきらと梢をぬって降り注ぐ。
 そんな穏やかな森を、だがユァンは注意深く見渡した。
 森は人の領域ではない。どのような「獣」がどこを徘徊しているか、常に注意を払っていなければならない。そうでなければ、戦う力を持っていないウェイやメイエイを守ることはできないのだ。魔獣であるランタイとホンルはともかく、ウェイとメイエイはユァンが守らねばならない。
「ちょっと待って」
 「翼」に感じたわずかな気配に、ユァンは足を止める。 同時に手を広げ、背後に続くウェイ達の足をとどめる。
「どうした? ユァン」
 ウェイが背後から問いかけてきた。
「虎が歩いてる」
「虎?」
 メイエイが見回す。
「どこ? 見えないよ」
「見えてたら、こんなふうにしゃべってられないよ」
 ユァンはかすかに苦笑しながら答える。
 「盾」は「獣」に対する警戒を怠らない。メイエイがそんな危機感を持っているわけがないし、ともすればそれゆえに無鉄砲な真似をしてしまうことを、ユァンは身を持って知っている。
「あの藪の中。このまままっすぐ歩いていくと、藪から出てきたところにぶつかりそうだ」
 ユァンは指をさして示す。目に見えぬ「翼」は、藪の中をゆっくりと歩く虎の姿を捉えていた。虎は長い牙と鋭い爪を持つ「獣」で、地を走る「獣」の中で最も危険だとされている。「盾」数人がかりで周到に罠を張って初めて倒せるような虎に、ここで遭遇するわけにはいかなかった。
「通り過ぎるの待った方がいい?」
 ホンルがユァンを見上げて尋ねる。水の魔獣である彼は、川を泳いで移動することが多く、あまり虎と遭遇したことはなかったらしい。それでも森に住む者として、虎が危険なことはよく知っているようだ。
「ああ、このあたりなら大丈夫だろう」
 ユァンはうなずいた。
「じゃあ、ここで一休みしようか」
 ランタイが提案する。一同に異存はなかった。

 草地に腰をおろし、ユァンは空を見上げた。日は傾きかけ、涼しい風が吹き抜けていく。
 彼らはホンルに案内され、魔獣の集落を目指している途中だった。日が暮れる前に集落に着けるかどうかが気にかかる。
「村にかわりはない?」
「いつもと同じでのんびりしたものよ。防壁の穴も開いたままだから、よく外に出てたんだ」
「あぶないなあ」
 ウェイとメイエイの会話が聞こえる。ウェイの口調はのんびりとしていて、まったく危なそうではない。むしろ少し離れたところで聞いているユァンの方がはらはらしてしまう。
(誰か塞いでくれよ……)
 心の中でそうつぶやいた時。
「よ、ちょっといいかい?」
 ランタイが歩み寄ってきて、ユァンの横に腰を下ろした。
 大柄な男は、見たところ何一つ人と異なるところはない。だがユァンには、ランタイが自分と同じものであることが、はっきりとわかる。
 この男も、魔獣なのだと。
「ランタイさん……」
 何の用だろう、というように目を向けると、ランタイはにっこりと笑顔を返した。
「つかぬことを聞くけど、君のご両親って『盾』のヨウチュンとリンファ?」
「え? そうですけど……」
「やっぱりそうか、面差しが似てる」
 ランタイは微笑を浮かべたまま、空を見上げた。
「十五年前、子どもができないって言ってたから相談に乗ってたんだ。あれからどうなったのか気になってたけど、君を育てることにしたんだな」
 魔獣である自分が村の中で育てられていたのは、そういう理由があったからなのか。
 そして、ふと気づく。
 しばし迷ってから、ユァンは切り出した。
「ランタイさん、俺……両親に似てるってよく言われるんです」
「うん?」
「変じゃないですか? 本当は親子じゃないのに」
 自分が魔獣だと知ってから、ずっと疑問に思ってきたことだった。それまで自分が両親の子かどうかなど、まったく疑ったことはない。それほどに自然な親子に見えることが、自分の正体を知ってからはかえって不思議に思える。
(俺がそういう姿をとっていた、ってことなんだろうか)
 意識していたわけではないにせよ、この顔立ちや背格好は、彼の魔獣としての力が作り上げた虚像でしかない。両親から生まれた子供のように見えるのも、所詮見せかけにすぎないのではないか。
 そう思うと、ひどくやりきれない思いにかられる。同じように村で育てられた魔獣であるランタイになら、この思いは理解できるだろう。
 が。
「ユァン」
 ランタイは穏やかに答える。
「それは、君たちが親子だからだよ」
「えっ?」
 ユァンは呆気にとられる。親子であるはずはないのに、ランタイがどういうつもりでそう言ったのかわからなかった。
「だって……」
「いいかい」
 ランタイはゆっくりと、説いて聞かせるように語り始めた。
「僕らの姿を決めるのは、僕ら自身とは限らない。周囲がそうあってほしいと望んだ姿を、僕らは少なからず反映しているんだ。さっきウェイとメイエイの思い描いた姿を受け取ったから、君はその姿で戻ってこられたんだろう?」
「あ……」
 真影鏡を突きつけられ、拡散しかけたあの時、自分の姿を自分で思い描いてもとの姿に戻ったのではなかった。ウェイとメイエイが思い浮かべた姿をランタイとホンルが伝えてくれて、それでこの姿を取り戻せたのだ。
 ランタイは続ける。
「君が彼らに似ているのは、君たちが互いに親子だと思っていたからだ」
「……」
「ユァン。君のその姿が、君たちの築いてきた絆そのものなんだよ」
 ユァンは黙ってランタイの言葉に耳を傾けていた。
 なぜか、涙が頬を伝うのがわかる。
 この姿が永遠のものではないことはわかる。ひとつ間違えば容易に失われてしまうものだということも。
 だがそれは、この姿が無意味だということではない。そういうことなのだ。
 今ここにこの形で在ること。
 その意味が確かな重みをもって、胸のうちにおさまったような気がした。

「あ、虎だ」
 ホンルが声を上げている。見ると虎がゆったりとした動きで前方を横切っていった。こちらに気づく様子はない。
「通り過ぎたら出発だな」
 ランタイの声。一同が見守る中、虎は茂みに消えていく。
 ユァンはじっと右手を見つめた。指に伝わる感覚を確かめるようにそっと握りしめ、ゆっくりと顔を上げる。ウェイとメイエイが虎を指してなにか言っているのを見て、その口の端に笑みを浮かべた。
 すべてを終わらせて帰りたい。
 ウェイを守り、つれて帰るのではなく、自分自身が帰りたい。
 おそらく初めて、ユァンの心にそんな思いが浮かんだ。
 ユァンは森に向かって「翼」を広げる。見えない「翼」が森を探り、進む方向が安全なことを知らせる。
「行こう、こっちだ」
 ユァンのその声には、もう迷いはなかった。

(おわり)

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