「消えた?」
ウェイは聞き返す。
「ああ」
重い口振りで、セイリンは答える。
「そうとしか、見えなかった。確かに一瞬前まで目の前にいたのに、あの瞬間……」
「虎は?」
「それも奇妙なんだが……虎は獲物を探すようにしばらくうろついていたが、やがてどこかへ行ってしまった。まるであの子ばかりか、私まで見えなくなってしまったようだった……」
長い話を語り終え、セイリンは沈鬱な目を伏せる。
「あの時何が起こったのか、私にはわからない。あの子がどうなってしまったのかも……」
レンユウの姿は、いくら探しても見つからなかった。
もはやレンユウを連れて行くという目的を果たすことはできない。それにもかかわらず、彼女の足は真影に向かった。何が起こったのか答えてくれる者などいるはずもないが、せめてこの旅の話を誰かに聞いてもらいたかったのかも知れない。
重い沈黙が、部屋を満たした。
「――セイリンさん」
沈黙を破ったのは、それまで一言も発しなかったユァンだった。
「その子……セイリンさんを守っています」
「?」
意味が分からず、首をかしげるセイリンに向かって、ユァンは静かに続けた。
「門で会った時から気になっていたけれど、セイリンさんのまわりに風の魔獣の気配がしているんです」
「本当か? じゃあ……」
ウェイが身を乗り出した。ユァンはひとつうなずいて見せる。
「魔獣は姿を失うと拡散して、空気や水や土にとけ込んでいってしまいます。それでももとの記憶や思いが残っているうちは気配が残るし、俺にもわかるんで」
「どういう……ことだ」
呆然とセイリンはつぶやく。
「セイリンさんには信じられないかも知れないけれど、たぶんその子はそうやって、セイリンさんを虎の目から隠そうとしたんだと思います」
「そんな……」
「話せる? ユァン」
ウェイの問いかけに、ユァンはかぶりを振った。
「かろうじて思いみたいなものが残ってる……でももう、呼び戻すのは無理そうだ」
「あの時のおまえみたいなわけにはいかないか」
「うん……」
伏し目がちに答えるユァンを眺めていたセイリンは、あることに気づく。
「待ってくれ」
当たり前のように二人の間で交わされる会話が示すもの。
「まさかとは思うが……ユァン、君は……」
「ええ」
赤みがかった目をまっすぐセイリンに向け、ユァンは答える。
「俺は風の魔獣です。たぶん、セイリンさんが連れて来ようとした子と同じ……」
「そんなことが……」
信じられない思いだった。
魔獣。決まった姿を持たず、かつては人の間にも紛れていたもの。こんなにも近くに、狩られて封じられ、忘れられてきた存在がいるとは。しかも、人々を守る「盾」として。
「ばかな……魔獣は人の敵ではなかったのか?」
「セイリンさん」
ウェイがゆっくりと口を開く。
「セイリンさんは、魔獣の性質をご存じですか?」
「? 決まった形も性質もなく、ただ人に敵対するものが魔獣だろう?」
「そう伝えられてきたし、彼らもそう思ってきたけれど、そうじゃない……魔獣は『守るもの』なんですよ」
「なんだって?」
「いろいろな生き物に紛れて、その種を守り、死ぬと空や水や土の中で拡散して、人や『獣』が過ごせる環境を守る……ずっとそうやって、見えないところでこの世界を守ってきたんです」
「……!」
そんな魔獣の話を聞いたことはない。セイリンの、いや、大概の人々が耳にする魔獣の話は、恐ろしく得体の知れない人の敵の話だ。
だが。
不思議と信じられるのはなぜだろう。
ウェイは静かに続ける。
「その子もきっと、セイリンさんを守ろうとしたんですよ」
「わかるのか?」
「実際、セイリンさんは虎から助かったんでしょう?」
「……そうか、そうだな」
セイリンはうなだれる。
彼女が魔獣だったから、そしてセイリンを守ってくれたから、今こうして自分は奇跡的に生きている。
それは「盾」の自分が彼女を守ることができず、逆に守られてしまったということだ。
苦い後悔があとからあとからわき上がる。
彼女がそんな形で散ってしまうことなど、望んでいたはずがない。
紅裳の手前で握った小さな手の感触を、今もはっきりと覚えている。あの時彼女は、ひたすらに自分をすがってきた。それなのに、何もしてやれなかった。せめて真影まで連れて来れば、彼女を理解できる者もいたというのに。
「……私は、レンユウが魔獣であれば殺すことになっていた。あの子もそれを知っていた。なのに……」
「ここまで来てその子が魔獣だとわかったら、本当に殺すつもりでしたか?」
ユァンの問いに対して、セイリンは首を振った。
「……いや、できなかったろうな」
「その子もわかっていたと思います。風の魔獣は、自分に向けられる悪意や殺意にはてきめんに弱いんです。セイリンさんに殺意があったら、守りたくても守れなかったでしょう」
「そういう……ものなのか」
「ええ。人の気配や感情をどうしても感じ取ってしまうから。玉輝はその子には辛いところだったと思います。けれど……セイリンさんは彼女にとって、守りたいと思える相手だったんですよ」
「そう……だろうか」
「そういう人に会えて、守り抜くことができて、たぶんその子は満足だったと思います。俺達は……そういうものなんです」
ユァンは静かにそう言った。魔獣である自分を「守る存在」としてしっかりと位置づけた揺るぎなさが、彼の言葉には宿っていた。
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