ラムサスのかそけき理想


「<メリトクラシー(meritocracy)>という言葉を知っていますか? 英和辞典に載っているんで調べて下さい」…ってこれじゃ、大学2年の教育学概論の授業である先生が言った言葉そのまんまだけど。

 

「メリトクラシー」。辞書には「能力主義; 能力主義社会」というような意味が載っている。この言葉は、マイクル・ヤングという社会学者の「メリトクラシー(The rise of the meritocracy)」という著書の中にある造語だ。

 この本は、論文に見せかけて、架空のイギリスを描く。20世紀から21世紀にかけてのイギリスに生きた社会学者が「なぜ下層階級の人々が抗議行動を起こすのか」を論文としてまとめた…という形をとっているのである。

 21世紀、イギリスは「メリット」という概念に基づいた社会を作っていた。「メリット」とは「能力+努力」のことである。もともと能力があり、それを伸ばすという努力をする人が「メリトクラシー」すなわち「メリットに基づく階級社会」の上層に上がることができる。つまり、能力があって努力する人は、親の生まれや出身地などにかかわりなく、その能力にふさわしい場と待遇を受けることができるのだ。能力があるのに不遇、なんてことには決してならない。能力の開花時期が遅い人のために、能力を測定するテストはいつでも受けることができ、そこで能力を示せれば、過去の悪い記録は抹消され、堂々と上層階級の仲間入りを果たすことができる。

 ヤング描くところのイギリスは、この制度によって人材を適切に配分することができ、能力ある下層階級の不満をなくし、飛躍的な発展を遂げた。下層の人々も、大器晩成ということばを信じてテストを受け続けることができた。

 ちょっと見には、なかなかの理想郷である。

 が。

 能力テストの予測精度が上がるにしたがって、生まれる前からメリットが予測できるようになっていく。予測がほぼ正確なので、下層の人々にとっては、いつか能力が開花するという希望がなくなってしまった。何度テストを受けても、ダメな人はダメなのである。一方で、メリットが高いという予測のされた子どもを誘拐して自分の子どもにしようとする、ということも起きる。

 上に上がる希望のなくなった下層階級の人々は、やがて、団結して抗議行動を起こす。論文著者の社会学者は「行動の論理が不明確だし、陳腐だし、人々を率いていくような能力のある人は、メリトクラシーのシステムゆえに下層階級にはいない」ことを理由に、抗議行動はちょっとした騒ぎにはなっても、大したことにはならないだろうと予測して論文を終える。

 だが、論文著者は抗議行動に巻き込まれて殺されたという注釈が最後に書かれている。下層階級の抗議行動は成功し、「メリトクラシー」が崩壊した(もしくは危機にさらされた)らしい…という結末なのだ。

 能力があり、努力すれば誰でもそれに応じた待遇を受けることができる…これは、近代の理念である。近代社会は、「属性主義から業績(能力)主義へ」の方向性を持っていた。生まれや性別、人種などによってその後の人生が決まってしまうような社会ではなく、そういったものを問わずに、能力があれば自分の人生を切り拓いていけるような社会…そんな社会が目標とされていた。

 実際には、こんな社会はまだ実現していない。「メリトクラシー」が誤解され、そういう社会が既に存在しているかのように扱われ、「わが国はどの程度メリトクラシーを実現しているのか」というような研究がなされてきたのだが、ヤングはそういう意図で「メリトクラシー」を書いたのではなかった。

 メリットを重視する社会が行き着く果ては、あらたな階級社会である。抑圧する者とされる者がいて、かつ、それを分ける基準があまりに厳密であるために、格差はいっそう広がってしまうような社会。彼が描いたのは、一種のディストピアだ(じつはヤングは、イギリスで能力主義を推進する法案が出されたことに対する皮肉をこめて、この論文調のSF(笑)を書いたのだという)。

 まあ、単純な話だ。ニサンでシタンが言うように、能力主義社会は要するに、階級をつくる基準を変えただけの社会だ。少なくとも、結果としての平等は実現されない。メリットは均一ではないのだから。誰もが学校に入れても、誰もが首席で卒業することはできないのだ。だが、国家が発展するということを考えれば、能力ある人の待遇をよくすることは生産性を向上させるために必要な政策である。個人から見れば、能力のある限られた人だけが恩恵を受けることができる。それ以外の人にとっては、必ずしも理想的なものではない。

 

 さて、ここでやっとラムサスの話に入れる(笑)。

 ラムサスの理想…それは、シタンの言葉を借りれば「能力を重んじる」…すなわち、能力主義社会の実現だったのだろう。それは、機会としての平等(誰にでもチャンスはある)をもたらすが、結果としての平等(誰でも成功できる)をもたらすことはない。のちにエレメンツが言うように、弱い者が淘汰されていくのも仕方がないのである。

 で、まあ、機会としての平等と結果としての平等、ふたつの平等の正当性をここで云々しても仕方がない…というか、それは60年代から最近に至るまで、繰り返し議論されてきたことだ。

 ここで書くべきは、こういう理想をラムサスが掲げた意味である。

 前述の通り、能力主義社会は、自分に能力があり、限りなく前進していけると思っている時か、もしくは、国家の生産性を高める必要に迫られている時でないと、かえって自分の地位を下げてしまうような、危険な理想である。

 ラムサスにとって、ソラリスの繁栄のためという動機は考えにくい。かといって、彼は自分の能力に限りない自信を抱いていたようにも思えない。いや、はた目にはそう見えたかも知れないが…、それがいかにもろいものであったかは、方々に見られるエピソード…特に、ニサンでのエリィとの対話(天帝暗殺の直前)に示される。自分が「塵」であることを極端に恐れ、防衛する姿がそこにある。では、自分を遺棄した者達を見返すために上り詰めようとしたのか? …それもなんか妙だ。経過はどうあれ、ラムサスは下層市民の立場からユーゲントに入り、優秀な実績から異例の昇進を遂げた…それは、ユーゲントを中心とした人材養成システムに、能力主義的な基盤がなければありえないことだったはずである。たとえばカレルレンやミァンが、ラムサスに這い上がってくることを期待し、陰で手を貸していたとしても、それをラムサスに気づかせないように自然にやるためには、やはり「能力があれば出世できる」という共通理解がなければならない。

 すると、能力主義が手段と目的のどちらだったのか、わからなくなってしまう。彼のやろうとしたことは、高邁な理想というよりも、ソラリスの体制のマイナーチェンジ(既にある程度あった能力主義的な側面をちょっと発展させた)だけだったのかもしれない。

 ともあれラムサスは「能力を重んじる」国家を実現するという理想をかかげた……少なくとも周囲に説き、人を集めていく手段とした……わけだが、実は、別にその理想でなくてもよかったのではないか、という気がする。彼自身が、本当にそんな国家を「悲願」としていたのか。…たしかに実績をあげれば、その生まれの特異さが背負ったものをも打ち消すことができそうである。だが、ひとたび失敗すれば、また「塵」扱いされてしまうし、自分ではそういった他者の評価をはねかえすことができず、ある意味で自分自身によって自分を塵にしてしまっていた彼にとっては、そんな国家は結構生きにくい世界ではないだろうか。

 だから私には、ラムサスの「理想」が、必死に自己の拠り所を求めてしがみついた、消えかけた小さな炎のように見えてしまう。「理想」そのものが大切なのではない。しがみつくものが、彼には必要だったのだ。…そう思うと、彼が理想に向けて邁進しようとすればするほど、なんだか切ないものがある。

 エレメンツ達はもしかすると、ラムサスのそんな脆さ、切なさを感じとっていたのかも知れない。雪原アジトでの回想でシタンが言うような「優しさ」だけではなく。だからこそ、あくまで「ラムサスの理想の実現」を表に掲げて戦うことをやめなかったのではないだろうか。ラムサスのあまりに頼りない拠り所を懸命に守るのが、彼女たちのやさしさだったのではないか…と思う。

[POINT-S]