魔の島のシニフィエ

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第二章 破壊神の片腕

4 偽りの記録

 それが「ウドゥルグ」だったのかどうか、デューイにはわからない。だが少なくとも幻覚ではなかったし、あの圧倒的な力は常人のものではない……それだけがすべてだった。
 しかし、解せぬこともある。ウドゥルグだとすれば「死者をよみがえらせることは我が意志ではない」という言葉はあまりにも不自然だ。死の世界を支配する破壊神だからこそ、死体制御の魔法はウドゥルグの恩寵なしにはできないと言われているのだから。
 さらに、あの圧倒される感覚は、デューイにとって決して不快なものではなかった。死体制御の魔法が使われる時にいつも感じていた、まがまがしい気配とはまったく違う。たとえて言うならば、人為では不可能な大自然の営みを目の当たりにした時の感覚に近い。
(僕は……どうかしていた)
 目の前の犬の死体を見やって、デューイは思う。
(命令だろうとなんだろうと、僕はこいつを殺した。それを認めたくないばかりに、僕の勝手な都合でよみがえらせようとしていたんだ……)
 自分が奪った生の重みを忘れ、自分の都合で殺したり生かしたりすること。そうやって死をもてあそぶことは、はたして人間に許される所行なのだろうか。
 あの侵入者は、あるいはデューイのそんな心をいさめるために来たのかも知れない。
 だが。
 それならば、「ウドゥルグ」とは何なのか?
 侵入者は明らかに、ウドゥルグを呼ぶデューイの声に応じて現われた。その意図はわからないが、何らかの関わりを暗示することは確かであろう。なのにその言葉は、司祭の語る破壊神のイメージとは大きく食い違う。
 ウドゥルグは、死と破壊の世界をもたらす者ではなかったのか?
 あの侵入者が正しいのか、それとも司祭が正しいのか。
 デューイには判断できなかった。それだけの情報を持っていないことは、彼自身よく知っている。ロルンにいる以上、司祭の言葉を絶対のものとして信じねばならないことも。だが、幼いころに両親に誓った通り、デューイは死と破壊の世をもたらすことに加担する者にはなりたくなかった。「ウドゥルグに救われる」という占いによって変えられてしまった人生。だからこそ、占い通りの生をまっとうしたくはない。
 だがもしも、ウドゥルグが自分の知っているような存在ではないとしたら? 
 それは、ひとつの希望だった。
 ウドゥルグに救われ、支えられて歴史に名を残すという占いは、未だにデューイの心に重く暗い影を落としている。ウドゥルグが言われている通りの存在なら、あるいはデューイこそが破壊神の復活と世の破滅の鍵を握る者であるかも知れないのだから。罪なき人々の血によってもたらされる世界を、デューイは望んでいない。そんな世界に生き残り、死を超越したいという気もない。占いに語られた運命は、彼にとってただ重く忌まわしいものに過ぎないのである。
 デューイは、暇さえあればロルンの図書室にこもるようになった。
 ウドゥルグについて書かれた文献を読みあさるうちに、やがて彼はあることに気付く。
 文献はすべて、ヘスクイル暦元年以降に書かれたものであり、著者は司祭か信徒の称号を持つ者である。彼らの主張はみな、教義とさして変わらない。破壊神ウドゥルグがはるか昔にこの島に封印されたこと、死の世界を支配し、封印が解かれれば地上を死と破壊で覆うだろうということ、そして封印を解くのに貢献した者は、死を超越し、破壊後の世界をウドゥルグとともに支配すること。
 数百年もかわらぬ教えが守られてきたわけである。
 だが、なぜヘスクイル暦元年以前の文献がないのだろう。破壊神に関するものではない、武術や薬学などの本には、さらに古い時代の、しかも島外のものもあるのだが。
 ヘスクイル暦は、破壊神の信奉者が封印された神を探し求め、この島にたどり着いて支配権を確立した年を元年とする。つまり、それ以前にも破壊神を信じる者がいたはずなのだ。それなのに。
(おかしい……一切の文献が残っていないなんてことは……)
 その疑惑は、彼を無性に駆り立てる。目的の文献が図書室にないことがわかっても、彼は執拗なまでに探し続けた。
 そして、ある日。
 デューイは無謀ともいえる挑戦を試みた。夜遅く、ロルンの暗殺者には立ち入りが禁じられている書庫に忍び込む。見つかれば命はない。わかっていてなお、彼は真実を探らずにはいられなかったのだ。
 窓からさしこむ月あかりだけを頼りに、これはと思う書物を探し、読みふける。ヘスクイル暦元年以降の本には用はない。彼が求めているのは、それ以前の、図書室に置かれていないような書物である。
 何冊めかの書物をぱらぱらとめくっていたデューイの目が、大きく見開かれた。
 そこには、見慣れた幾何学模様が、まったく異なる説明とともに描かれている。デューイは食いいるようにその説明を読む。
 これが……真実の断片。
 さらに、書物にはさんであった紙片。ぼろぼろになった紙きれに書かれた文字は、さらに新しい事実をデューイにつきつける。
 故意にか偶然にか、教団によって隠蔽され、ひっそりと書庫の奥で眠っていた……。
 興奮と感動と、そしてなにより困惑と。
 わきあがる感情をおさえ、デューイはひたすらに読み続ける。
 夜明けは、近い。

 真実をつかむのに夢中になっていたデューイは、いつのまにか背後に立っていた人影に気付かなかった。
「……さすが、ウドゥルグ様の片腕」
 そんな声に、心臓をつかまれたような気がして振り向く。
 赤い仮面……上級司祭である。
(しまった……!)
 身構えるデューイに、上級司祭は慌てるふうでもなく言葉をかけた。
「探し物は見つかりましたか? バートレット君」
(名前を?)
 レブリム支部には、百人以上の暗殺者がいる。ロルンとはほとんど接触を持たない上級司祭がデューイの名を知っていることは、まず考えられないことだった。そんなデューイの驚きを見透かしたように、上級司祭はくっくっと笑う。
「おや、ウドゥルグ様の片腕ともあろうお方は、わたくしめの名など覚えてらっしゃらぬらしい。十年前、お迎えにあがったというのに」
「バルベクト……ユジーヌ……司祭長…?」
 やっと思い出した。バルベクト・ユジーヌ……占いの話を聞きつけ、デューイを迎えに来た上級司祭である。司祭長の職にあり、名実ともにベルレン教皇につぐ教団のナンバー2と言われていることは、デューイも知っていた。だが、いくらウドゥルグにかかわることとはいえ、十年も前のことを、この司祭長が覚えているとは思ってもみなかった。
 僕はずっと監視されていたのか……?
 デューイは身を固くする。
 一方ユジーヌは、とがめる風でもなく、世間話でもするような口ぶりで続ける。
「立ち入り禁止の書庫にまで忍びこんで調べたかったのは、ウドゥルグ様の本来の姿ですか」
 ユジーヌ司祭長は、書庫の書物にも精通しているらしい。デューイの手の書物を一瞥しただけで、見事にデューイの意図を言い当ててしまった。
 たじろぐデューイは、言葉が浮かばない。そもそも、権力が違いすぎる。今さらいいわけしたところで、立ち入り禁止の書庫に入った罪を問われることは間違いなかろう。恐らくは死罪……だが、デューイはなんとしても真実を知りたかった。
「本来の……ならばあなたは、教義が偽りだということを認めるのですか?」
 やっとの思いで、問いを口にする。この書物に書かれていたことが真実ならば、教団はとんでもない詐欺を働いていることになる。この上級司祭は、それを知っているのだろうか?
「偽るつもりはありませんよ。ウドゥルグ様にはウドゥルグ様らしくあってほしいと願う限りですな」
 含みのある言葉だ。まるで、そうでないウドゥルグがいるかのような……。いや、実際、デューイが今読んだばかりの書物に書かれていた内容は「ウドゥルグらしからぬウドゥルグ」の姿を物語るものだったのだ。
「ところで、バートレット君」
 ユジーヌの声は静かだった。
 なのに、ぞくりと戦慄が身体を駆け抜ける。毒蛇にじわじわと絞めつけられているような気分にさせられる。
「……はい」 
 口の中がからからで、思うように声が出ない。
「あなたは、ウドゥルグ様に会いましたね」
「! それは……」
 何もかも見透かしているのか、この司祭長は。
「……やはりね……」
 すべてを知っていたかのように、ユジーヌはうなずく。
 暁光の中に浮かび上がる真紅の仮面。変わらぬ表情が、いっそう無気味である。
 だが。
 不意にデューイは思った。
(この人は怖いけれど、人間でしかない)
 人ならぬ雰囲気をもつ、あの侵入者とは違う。ただの人間ならば、どうせ死罪になるだろうデューイが恐れる必要はない。そう思うと、いくぶん気分が軽くなる。どうせ殺されるのなら、知るだけのことは知ってから死のう。破壊の世の礎となるのではなく、もっと、自分にとって納得のいく死を迎えよう。
 奇妙なことに、この時のデューイは驚くほど静かに、自分の死を見つめる心境になっていた。ただ、その前に触れかけた真実の断片をしっかりとつかみたい……それだけを願っていた。
「なぜ、やはりとおっしゃる。あなたには僕の行動が読み取れたとでも?」
 ロルンの暗殺者と司祭長。本来ならば言葉をかわすことすらはばかられるほどの地位の違い。デューイは、もはやそれを恐れていない。
「……さすがに、似ていますね……」
 謎めいた言葉。仮面の下で、ユジーヌが笑っている。そのように思えた。
「答えてあげましょう。占いの結果が真実ならば、あなたはいずれはここにやって来る……そしてそのためには、あなたはウドゥルグ様に会っていなければならない……」
(ならば、あれは本当に……?)
 ウドゥルグだったのか、と、デューイは自問する。だが確かに、見つけたばかりの古い文献の内容と、あの侵入者のことばは符合していた。
「ユジーヌ司祭長……あなたはまるで、ウドゥルグ……様がこの書物にあるような姿で既に降臨していることを知っているかのようだった。それでいて、ウドゥルグ様を一般に信じられているような姿のままにしておきたがる……なぜです?」
「いい問いですねえ」
 できの悪い生徒を褒めるような口調で、ユジーヌは答えた。
「せっかくだから、ご自分で考えることですね。もっとも、あと数刻しかないかも知れませんが」
「数刻……」
 デューイはつぶやく。それが彼に課せられた、命の刻限なのだろう。
「それもいいだろう……これ以上殺さずに済むのなら…」
「おやおや」
 ユジーヌの声は、明らかに嘲笑を含んでいた。
「ウドゥルグ様の片腕とも思えぬ」
「はじめから、そんなものになった覚えはない」
「……まあ、私としてもその方が望ましいのですがね。彼はどう思うか……」
「……彼?」
 デューイは聞き返す。だがユジーヌは答えるつもりなどないようだった。
「来なさい。規律違反者の処刑は正午に行います」
 デューイは無言で立ち上がった。覚悟はしていたことだ。解けなかった謎がいささか心残りではあるが、ロルンにありながら教義になじもうとしなかった彼にとって、こういう結末は遅かれ早かれ来ることになっていたのかも知れない。……少なくとも、忠実な信徒と惜しまれるよりは、ずっとましだろう……と、デューイは思った。
「言っておきますが、死ぬとは限りませんよ」
 どういうつもりか、ユジーヌが言う。
「えっ?」
「ハル・ロンバートの予言……どのように成就するのか、楽しみですねえ」
 ユジーヌはくすりと忍び笑いをもらす。
 そういうことか、と、デューイは納得した。
 占いに示されたウドゥルグのカードが、隠蔽された本来のウドゥルグを示すのか、それとも教団が流布し続けてきた破壊神を示すのか、バルベクト・ユジーヌにも判断がつかないのだ。だから、デューイの生命の危険がどんな形で「救われる」のかを、処刑という形で試そうとしているのだ。
 たぶん、司祭長の頭の中にあるのは、ウドゥルグという存在に対す知的好奇心なのだろう。そのために、ロルンの一暗殺者を実験台にすることなど、何とも思わない……。
 デューイは、そんなユジーヌの態度がたまらなく不快だった。だが、ウドゥルグに対する興味を自分自身も抱いていることは、認めざるをえないと思っていた。
 しかし実際のところ、この時のデューイは、バルベクト・ユジーヌという男の恐ろしさをほとんど理解していなかったし、このわずかな会話から得られる情報の重要性にも、あまり気付いていなかったのである。
 どのみち、生殺与奪の権限は、今のデューイにはない。

 正午。
 後ろ手に縛られたデューイは、校舎の中庭に引き出された。規律違反者はこのようにして身体の自由を奪われた上で、まだ修行中の仲間達の練習台となる。暗殺術を教えているとはいっても、実際の人間を使って練習する機会はあまりない。一人前と認められる前の練習生に対して、人間を殺すことに慣れさせる機会を提供するのが、こういった処刑の場であった。
(魔術師の卵か……)
 中庭の後輩達を一瞥して、デューイはつぶやく。服装や身のこなしから見て、今日の練習生達は魔術を専攻している者達のようだった。恐らくは火炎呪文を浴びせられ、絶命した後には死体操作の呪文を試されるのだろう。この、自分の身体に。
 デューイはこの期に及んでなお、何の感慨も恐怖も抱かない自分に驚いていた。書庫で司祭長に見つかってからというもの、心が麻痺してしまったように動かない。
(まあ、いいさ……どうせ一瞬で済む)
 他人事のように、デューイは思った。心残りはないわけではない。両親のことは、今でも心配だし、自分が死んだと聞けば、さぞ悲しむだろうと思う。
(もう一度、昔みたいな笑顔を見たかったけど……)
 それも叶わぬままに終わりそうである。
(あとはなんだろう……そうだ、ウドゥルグの隠された姿……誰かに伝えたかったな)
 書庫で見つけた真実の断片。破壊神におびえる人々に教えることができれば、どんなによかっただろう。
「準備はできたか?」
 中庭の一角。燃えにくい石の壁ぎわにデューイは立たされている。練習生達が回りを囲み、めいめい火炎呪文のシンボルを描いていた。
(これで、死ぬのか……僕は……)
 教官の号令と共に、練習生達の手元がまばゆく光る。生み出された火球はまもなくデューイを焼き尽くすだろう。
 デューイは目を閉じた。
 激しい衝撃と熱波が彼を襲い、目の前が白く輝いた。


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