連作「『記号魔法』翻訳者の記録」

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1 新米研究員の午後

 ぞくり、と、寒気に似た気配が背筋をなでる。何かを浴びてしまったとでもいうかのように、反射的に首のあたりを手で払う仕草をしてから、ガルト・ラディルンはわずかに苦笑を浮かべた。
 (もうそんな時間か)
 地下にあるこの部屋からは太陽は見えないが、ちょうど正午を半時過ぎた時刻のはずだ。
 このケレスよりはるか北西に位置するヘスクイル島が正午を迎え、破壊神ウドゥルグに生贄が捧げられたことを、距離を隔ててなおガルトは感じ取ってしまう。嫌な気分だが、今はどうするわけにもいかない。
 ガルトは立ち上がる。机の上に開かれた書物にしおりを挟んで閉じ、部屋の入り口にかけられた真新しい「ウィルビアー」と書かれた札を裏返してかけ直し、部屋を出る。
 そうして彼はケレス魔術図書館を出て、食事に向かった。

 彼が魔術図書館で働くようになってから、ちょうど十日が過ぎていた。
 ラドアとともに向かった地下遺跡から戻ってから、さんざん考えた挙げ句、彼は記号魔法について学ぶことを思い立った。島で教え込まれた暗黒魔法がすべてではなく、大陸で伝わっていたシンボルもあるらしい。未知のシンボルについて知っておきたかったし、ロー・シンボル「ウドゥルグ」がいかにして破壊神と信じられるようになったのかも知りたかったからだ。
 幸い魔術図書館には、500年ほど前に古い言葉で書かれた記号魔法の文献があった。はじめはただ読むだけのつもりだったが、図書館の研究員に声をかけられ、公用語に訳してみないかという話をもちかけられた。ガルトが島で学んだ「古い言葉」はどうやら、記号魔法を伝える流派でしか伝わってこなかった言語らしい。彼が読んでいた文献も、大陸では解読する者がおらず、誰にも読まれないまま放置されてきたものだった。
 読みたいものを読んで収入になるのであれば、断る手はない。二つ返事で引き受けた。以来、昼間は図書館地下の共同研究室で翻訳を行い、夜は新しいシンボルを描く練習をする日々が続いている。
 翻訳という作業は、ことのほか難しかった。記号魔法という一般に知られていない魔法体系を紹介するのだからなおさら、専門用語の訳語に気を使う。しかもガルトが知っているのは、大陸の記号魔法ではなく、ヘスクイル島の暗殺者の魔法である。大意を理解した上で穏当な訳語を当てはめていかなければ、物騒きわまりない訳になりかねなかった。それでもこの新しい経験は、ガルトにとって苦痛ではない。日々知らなかったことに触れ、新しいシンボルを習得していくこと自体が楽しかったし、破壊神信仰から離れた記号魔法も彼にとっては新鮮だった。

 「でさ、このシンボルなんだけど、説明の言葉がわからなくてさ」
 ラドアの道具屋。ケレスの中心街、広場の近くにあり、図書館からもさほど遠くはない。
 店内のカウンターでガルトは、訳語についてラドアに相談していた。大陸での記号魔法の継承者だったというラドアは、多くを語らないながらも相談には応じてくれる。昼休みに広場の屋台で軽い食事をとった後で道具屋に立ち寄るのも、最近の彼の日課だった。
 「俺『ターゲットを狙う時に使う』って聞いてたんだけど、なにか違う気がして。もっと一般的っていうか……普通の説明できないかな」
 「そうですね」
 ラドアは紙に書かれたシンボルを眺める。
 「私は……『収束』のシンボルだと聞いています」
 「あ、そうか、『収束』か。となるとあそこは『一点に力を収束させる』でいいんだな」
 ガルトは胸のつかえが降りたというような晴れやかな笑みを見せた。ラドアはその笑顔をじっと見つめている。
 「それにしても、あなたが今になって記号魔法を学ぼうとするとはね」
 「変?」
 「いえ……シンボルだけならば、私がお教えすることもできたのに、と思いまして」
 「うーん」
 ガルトは少し困ったような表情で苦笑した。
 「それだけじゃダメだと思うんだ。うまく言えないけど」
 「駄目、ですか?」
 「うん……ほら、これがあるから」
 言いながら額を指さす。すっと縦に裂け目が入り、目の形に開く。彼自身は気づいていなかったが、彼の身体を中心に、目に見えない威圧感のようなものが広がっていった。
 「俺さ……やっぱり今も怖いんだ。破壊神になることが」
 「……」
 「ラドアさんのおかげで、確かに自分の意志で力を使えるようにはなったけど……力に近づいた分だけ破壊神の姿に近づいた。これで終わりなのか……これ以上信仰の影響を受けたらどうなるのか、不安なんだ」
 額の眼を閉じ、ガルトは闇色のまなざしを伏せた。
 ラドアはいつもの神秘的な笑みをたたえたまま、黙ってガルトの言葉に耳を傾けている。
 「今までさ……俺の身体が『ウドゥルグ』のシンボルと同じ役割を果たしてるんだ、って単純に思ってた。けど、だったらどうしてこんな、もともとなかったものが……人にあるわけないものが出るんだろう? だから、シンボルが今までどう語られてきたのか見てみたら、何かわかるんじゃないかって思って」
 「なるほど」
 大陸の文献にあるシンボルには、今まで知っていたものとは異なる説明がなされている。その差異は暗殺者の武器となった島の暗黒魔法と大陸の記号魔法の差異でもある。
 わずかな手がかりから解へと至る道を探し当てる、その感覚の鋭さには自信がある。何かあると思った所には、丹念に探し当てさえすれば、必ず何かあるのだ。
 「破壊神信仰の外側から『ウドゥルグ』を見ようということですね」
 ラドアの言葉に、ガルトは一瞬目をぱちくりさせる。迷いつつたどたどしく言葉にしてきたことを一言で言い当てられたという表情だ。
 「ん? ああ、そうだな、そういうこと」
 屈託ない笑みを見せ、ガルトは立ち上がる。
 「そろそろ戻って続きやるよ。じゃあ、ありがとう」
 「どういたしまして」
 軽い足取りで店を出ていくガルトを、ラドアはじっと見送った。

 その目に一瞬、迷いのような色が浮かび……だが、すぐに消えたのを、見た者はいなかった。


2 発動できないシンボル

 店を出ると、爽やかな風が頬をなでていった。空が高く澄み、木々が錦に色づく、秋の盛りを迎えたケレス。一年でもっとも過ごしやすい時期だ。
 「――あ」
 広場を横切り、通りを図書館に向けて歩きながら、ガルトは小さな声をあげた。
 (忘れてた)
 ラドアに尋ねたいことがもう一つあった。
 「記号魔法」の本は、シンボルの種類と性質を網羅する概説編と、各シンボルの詳細な説明がなされる詳説編に分かれている。ガルトは双方を少しずつ同時に進めていた。午前中に概説編の方でも気になる部分を見つけたので尋ねてみようと思っていたのだが、うっかりしていた。
 (ま、いいか、いつでも。どうせ読んでる途中なんだし)
 そのまま図書館に戻り、研究室の自分の机で、訳を書きつけた草稿を読み直す。

 「力の属性、方向、活性を指定する他のシンボルと異なり、自然の理そのものを引き出すシンボルを、ロー・シンボルという。ロー・シンボルには三種類あり、それぞれ、時、因果、生命の非可逆性を表すが、実際には他のシンボルと組み合わせることはできず、発動は不可能であるとされる。というのは、各々のシンボルが発動している状態こそが現実の世界だからだ。」

 (発動は不可能……か)
 ガルトが気になっていたのはこのくだりである。
 時の流れも、物事の因果も、そして生死も、一方にしか流れない。そしてそれが一方に流れている状態は、ごくあたりまえの普遍の現実世界のありようなのだ。
 だが、それなら自分が感じ取り、制御することのできる「ウドゥルグ」のシンボルの力は何なのだろう。他のシンボルと当たり前のように組合せ、放つことのできる、この力は。
 (力の性質が変わったか、それとも制御可能な方法が後で見つかったのか)
 これまでに訳した箇所の情報だけでは、なんとも判断がつかない。
 (それに……発動が不可能なら、シンボルとして伝える意味はないんじゃないか?)
 いろいろと気になるので、概説の続きを訳していくことにする。ラドアに尋ねた詳説編の訳をちょこちょこと手直しして、ガルトは原本の文字をたどっていった。ある程度まで訳を済ませてから、あらためてその内容について考える。訳している間はあまりその内容について考えないようにしないと、あれこれ考え込んでしまって進まないのだ。

 「他のシンボルとは異なり、記録としては伝えられてはおらず、三つの流派がそれぞれのシンボルを継承してきた。このうち時の非可逆性をあらわす『カーナン』の流派は、継承者が途絶えつつある。また、生命の非可逆性をあらわす『ウドゥルグ』の流派は、ロー・シンボルに干渉するシンボルを発見し、悪用したために大陸から追放された。」

 辞書もないために、これだけ訳すにも時間がかかる。ある程度翻訳が進み、元の表現と訳語の対照ができるようになればはかどるようになると、同じ研究室の研究員が言っていたが、そこまでの段階にはまだ到達していない。
 一文字一文字書き連ねた訳文を改めて見直せば、意味のある情報が浮かび上がってきた。
 (ロー・シンボルに干渉するシンボルを悪用……)
 追放された「ウドゥルグ」の流派が、教団の祖なのかも知れない。
 「悪用」の内容について、概説にはそれ以上触れられてはいないようだったが、なんとなく見当はつく。島で教わった、屍鬼を作り出す魔法。他では用いられないシンボルと「ウドゥルグ」のシンボルを組合せたものだ。あのシンボルか、少なくともそれに類するものであろう。
 (もしかして、ロー・シンボルが伝えられていたのは、摂理を曲げるため?)
 ふと、穏やかでない考えが頭に浮かぶ。ただ発動しても意味のないシンボルがあえて流派を分けるほどに尊重され、伝えられていたのは、ただ発動するのではない発動のさせ方を……ねじまげ、逆転させ、あるいは無理に押し進めるような方法を……研究していたからではないだろうか。
 (もしそうなら、ロー・シンボルは摂理を曲げるためのシンボルだ)
 摂理そのものを操作することはできない。だが、シンボルという形を持っていれば、それは操作する対象になりうる。
 ガルトは頬杖をついて草稿に目を落とす。
 ふと気づいて、詳説編のページをめくる。次々に現れるシンボルを目で追った。
 二度ほどめくりなおし、確認する。
 「やっぱり……」
 ガルトは声に出してつぶやいた。
 (あのシンボルがない)
 屍鬼を作る……死者を生の世界につなぎ止める、あの魔法で用いられるシンボル。他のシンボルにはない不快感が、あのシンボルが周囲で描かれるたびに感じられた。どこかを逆撫でされているように、居心地の悪い気がしていた。
 (そうだ、あの感覚は……)
 思い出してみれば、それが地下遺跡のあった島でディングを苦しめた感覚と同じものであることがわかる。死者をあるべき所へ送ることなく死霊として留める力──生命の摂理の力に干渉し、ねじまげる力に自分の身体が反応した嫌な感覚を、ガルトははっきりと覚えていた。
 そんなシンボルが「ウドゥルグ」のシンボルとともに島で伝わっていたのだ。そしてそれは、少なくともヴァリエスティン派と見られるこの書物の著者の記録にはないシンボルだった。
 つまり、少なくともウドゥルグ派は、ロー・シンボルに干渉することに成功したのだ。
 ロー・シンボル。存在すべてに及ぶ世界の理。それに干渉し、支配する力。
 時間を止め、選択をやり直し、死者を蘇らせる……。
 だが、それを望まない人間がいるだろうか。
 ガルトの口元がわずかにゆがむ。苦笑にすらならない、かすかな笑みらしきものを浮かべて、ガルトは目の前の草稿にじっと目を落としていた。


3 破壊神の伝説

 (……煮詰まった)
 訳を見ながらあれこれと考え込んでいたせいか、さっきから訳が少しも進まない。
 (休憩するか)
 立ち上がり、部屋の片隅に仕切られた休憩場所へ向かう。長椅子に二人の研究員が腰をかけ、なにやら話し込んでいた。目が合ったので軽く会釈して、隅のテーブルに乗っていたポットから自分のカップに茶を注ぐ。今日の茶はエテルナ公国産の香草茶らしい。いくぶん独特な香りが立ち上る。
 テーブル横の椅子に腰をかけ、ゆっくり茶を飲んでいると、聞くとはなしに研究員達の会話が耳に入ってくる。「投稿者」や「神話」といった言葉が繰り返し出てきた。どうやら神話学か何かの投稿論文についての話らしい。
 神話に特に興味があるわけではないので、つらつらと聞き流しながら香草茶の箱に書かれた効能などを眺めていた時。
 不意に意外な言葉が聞こえてきた。
 「ウドゥルグ伝説……」
 気のせいかも知れない。姿勢を変えずに、耳だけをそばだてる。二人の研究員のうち、二十代半ばとおぼしき青年が話を続けていた。
 「確かに各地を実際に調査し、伝説の中の史実を抽出しようとした点は評価できます。しかしウドゥルグという破壊神の実在性について依然仮説の域を出ていない以上、研究価値は高いとは思えません」
 「しかしだね」
 やや年配の、髭を生やした研究員が答える。
 「これまで各地に伝わる伝説として看過されてきたものを収集し、比較検討した上で仮説を立てた、その点は評価してよいと思うが」
 「それは神話学の範疇ではないのでは……」
 ガルトは立ち上がった。
 彼らはガルトの知らない「ウドゥルグ」を知っている。
 「あの、すみません」
 声をかけると二人は会話をやめ、いぶかしげにこちらを見る。
 「俺、最近ここに非常勤で来てる、ウィルビアーと言います。『ウドゥルグ』って聞こえたんで、ちょっと気になって」
 「君は伝承学か神話学の研究員かね?」
 年配の研究員が尋ねてくる。図書館の研究員にはいくつかの区分がある。その区分で答えることにした。
 「いえ、魔法学です。訳してる魔法の解説書で『ウドゥルグ』って言葉を見かけたところだったんですが……」
 「魔法の解説書に?」
 二人は驚いたように顔を見合わせ、やがて隣に座れというしぐさをする。座ると、若い方の研究員が話し出した。
 「我々は『神話研究』という雑誌の投稿論文の査読をしていたところなんですが、一本、どうも評価の分かれる論文がありまして、少し話していたところです。『ウドゥルグ』という神にまつわる伝説から、その神が実在するか否かを論じているものなんですが……」
 「すみません、伝説っていったい?」
 「大陸北部……といってもこのあたりよりも西、エテルナやデザクトあたりに散在するものなのですが、『ウドゥルグ』なる神が破壊の限りをつくしたが、北の島『ダーク・ヘヴン』に封印された……という伝説が伝わっている地域があるのです」
 「ダーク・ヘヴン……」
 それはまさしく、故郷の島の異名だ。ケレスでは封じられた破壊神を崇める狂信者の島と伝えられている。
 だが、大陸にそのような伝説が残っていたとは。大陸の伝説が島に伝わって信仰になった、ということだろうか。
 盲点をつかれた思いで、ガルトは研究員の話を聞く。
 「問題の論文は、各地の伝説を収集して伝説の構造を分析し、ウドゥルグという神が実在するのか論じようとするものでした」
 「伝説だけでわかるんですか?」
 つい、あまりに素人くさい尋ね方をしてしまったが、研究員達はもっともな問いだと思ったらしい。年輩の方が答えてくれた。
 「そう、現在『ウドゥルグ』という神を祀っているとされているのは、あのヘスクイル島だけだ。しかし伝説の『ダーク・ヘヴン』がヘスクイル島そのものかも定かではないし、島民が『ウドゥルグ』を信仰しているかどうかも不明でね。しかも『ウドゥルグ』がどういう神なのかもわからない」
 「はあ……」
 確かに俗説として、ダーク・ヘヴンの話はしばしば耳にする。だが、研究者にとっての論拠としては弱いのだろう。それにどうやら、伝説には島に伝わる死界の話も出ていないようだ。ウドゥルグは地上から追放されたが、死界を統べるものであり、封印が解かれればこの世は死界と化す。そう島では言われてきたが、伝説からはそれが欠落している。
 研究員の話は続く。
 「それでもヘスクイル島での信仰を調査しなければ、その神が実在するかどうかを実証したことにはならない。だがこの投稿論文は、ヘスクイル島でのフィールド調査を今後の課題として先送りしている。そこが評価を分けているところなのだ」
 「フィールドって……」
 「実際にその地に赴いて調査をすることです。この投稿者は神話学には珍しく、伝承をその地で採集し、地域の特性や史料とつき合わせることを専門にしているようです」
 (それ、めちゃくちゃやばいじゃん)
 他人事ながら、ガルトは心配になる。研究の成否以前の問題だ。うかつに入り込んでよい場所ではないし、司祭達もあちこち探り回るような真似を放っておくはずがない。暗殺者の標的になるか、生贄にされるのがおちだ。
 とはいえ、ウドゥルグ伝説を史実とつき合わせようとした論文ならば、どうしても見ておきたい。破壊神信仰の一端がそこにあることは明らかだからだ。
 「我々が知っている『ウドゥルグ』とは、伝承中の神の名です。他には一切文献も史料も見あたりません。そしてこの論文も、その域を越えてはいない……」
 若い研究員は続ける。
 「だから先ほど君が魔法の解説書で『ウドゥルグ』を見かけたと聞いて、驚きました。どんな形で記述されていたのか、教えていただけませんか?」
 ガルトは少し考えた。彼らの知らない「ウドゥルグ」を彼は嫌と言うほど知っているが、どこまでを話してよいのか。
 そして。
 「少なくとも、神の名じゃないです」
 恐らく相手の興味をもっとも引きそうで、かつ、自分の出身に触れずに済む答えをガルトは示した。
 二人の研究員の視線がこちらをじっと向いている。かなりの関心を持たれたことが感じ取れた。
 「一言で言えば、呪文に使われる言葉みたいなものです。訳してる途中ですが、どうもその言葉を守って伝えていた流派があったようで……」
 「なんと! それはいつ頃?」
 「少なくとも、今から500年以上前です。その流派は大陸から追放されたそうですが」
 「……!」
 研究者達は明らかにはっとしたような表情を浮かべた。
 やがて、年輩の研究員が言う。
 「ウィルビアー君だったかね、その話、非常に興味深い。一度時間を取って話してくれんかね?」
 「いいですけど、かわりといっちゃなんですが……その論文、見せてもらうわけにはいきませんか?」
 「雑誌に載せるかどうか決定していない投稿論文を、編集委員以外が読むことは規定に違反します。ですが、要旨をお見せした上で質疑に答えることならできますよ」
 つまり、自分で引き出せということか。
 研究者の流儀など知らないが、互いの関心を引く情報を交換し合うことができるのなら、そう悪い話ではないように思えた。既にできている草稿をまとめ、記号魔法について簡単な解説を加えればよいだろう。
 「そういうことなら……」
 「そうか、ではいつなら都合がつくかね?」
 「非常勤なんで、いつでもいいですけど」
 「ならば17日……5日後の定時後に私の研究室で、ということにしよう。本館2階の左翼突き当たりだ」
 「あ……はい」
 ガルトはうなずく。
 「それで君は飲める方かね?」
 「……え?」
 唐突な質問に、ガルトはきょとんとする。なんのことかよくわからない。普通こういう質問は酒が飲めるか、という意味だ。だがそれが研究室で情報を交換することとどう関係するのだろう。
 「ええ、まあ」
 曖昧に答えを返す。
 「ではクスィルダ君、あとで『風見鶏』に予約を入れてくれ」
 「わかりました。では研究会の後は『風見鶏』で懇親会ですね」
 (えと、あの……)
 二人のやり取りを呆然としながら眺める。「風見鶏」は新市街の居酒屋だ。
 (学者のきまりごとって、よくわかんねえな……)
 情報交換がいつの間にか「研究会」になっていた上に、居酒屋での懇親会までついてくるとは、正直予想だにしていなかったが、彼らの様子から見てそれが研究者の間では当然のことのようだった。

 「……それで、研究会とやらに行ってきたわけですか」
 数日後のラドアの店。ラドアがくすくす笑いながら尋ねた。この店主にしてはきわめて珍しい。
 「ああ、なんか俺が研究発表することになってて、『記号魔法におけるウドゥルグ』とかなんとかって題までついてた」
 「うまくいきましたか?」
 「たぶんね。かなり興味持たれてたみたいだし、投稿論文と合わせるとかなりはっきりした仮説になるんじゃないかってあれこれ意見が出てた」
 カウンターの椅子に腰をかけ、ガルトは昨日の様子を語る。
 「ウドゥルグ」が記号魔法のシンボルであり、そのシンボルを伝える流派が追放されたという彼の報告は、神話学者達にとって衝撃的であったらしい。というのは、彼らが査読中の投稿論文「神なき宗教の発祥 ウドゥルグ伝説の真偽に関する一考察」の仮説と符合するからだ。
 投稿論文は、「ウドゥルグ伝説」の伝わる地で、伝説にどの程度史実が含まれているのか調査を試みるものだった。その結果「ウドゥルグ」という実在の「神」が各地を襲撃した可能性は低く、むしろ「ウドゥルグ」なるなにものかの下に結集した集団がいたのではないかという仮説を立てている。
 ガルトが報告した「ウドゥルグ派のシンボルの悪用」が、伝説の元になったのではないか……それが、昨日の神話学者達の結論だった。投稿論文の著者に知らせ、書き直させれば掲載できる論文になるだろうということで、早速連絡を取ってみるとのことである。
 「……相当やばいと思うけどな」
 わずかに眉を曇らせ、ガルトは言う。破壊神信仰の研究など、深入りすべきことではない。だが、見も知らぬどこかの学者の研究をやめさせることは難しいだろう。
 「とにかく、他に記録がないってことは、ウドゥルグ派がシンボルを悪用していく間に破壊神信仰ができていって、それが島で教団になった……ってことなんじゃないかと思う」
 「なるほど」
 「けど、これ以上はたぶん島に戻らないとわからないだろうな」
 もしもシンボルを悪用したウドゥルグ派が教団の祖であるなら、破壊神信仰の成立過程も追放の記録も、島にしか残されてはいないだろう。
 だが、残っていないはずはない。
 かつてガルトを捕らえた司祭がいた。彼の差し金で妹を殺されたガルトは力を解放し、一つの町と三つの村を瞬時にして死の領域に変えてしまった。バルベクト・ユジーヌというその司祭は、ウドゥルグが破壊神ではなく、生命の摂理をあらわすシンボルでしかないということを知っていた。ガルトのようにシンボルの力を持つわけではない司祭が知っていたということは、破壊神信仰以前の記録が残っていた証拠ではないだろうか……そう、彼は思う。
 「それより気になるのはさ、ロー・シンボルのことなんだ」
 「なんでしょう?」
 ガルトは持ち出していた草稿のメモを取り出す。先日訳していてつまったあたりだ。
 「ロー・シンボルは発動できない、発動してるのが本来の状態だから……って書いてあったんだけど、これ、どういうことなんだろう」
 「と、言いますと?」
 「発動できるじゃん、今の『ウドゥルグ』って」
 組み合わせるシンボルのわずかな違いによって、生きているものに対しては「即死」の、既に死に、未ださまよう死霊には「浄化」の作用をもたらすシンボル。どちらも他のシンボルと組み合わせて発動させることができるという点で、500年前の文献とは食い違う。
 「ガルトさん」
 ゆっくりと、ラドアが口を開く。
 「発動できないのではなく、禁じられていたのではないでしょうか」
 「どういうこと?」
 「『ヴァリエスティン』は、描いてはならない禁断のシンボルだったんです。あなたの読んでいる文献がヴァリエスティン派のものだとするなら、ロー・シンボルの発動を試みる者が将来現れないよう、あえて発動できないと書いたのかも知れません」
 「嘘をついたってこと?」
 「書いた人は、ウドゥルグ派が悪用していたことを知っていたのでしょう?」
 「あ、そうか」
 発動できないものを悪用することなどできない。ウドゥルグ派が「悪用」していたのだとすれば、ロー・シンボルは発動されていたのである。
  引っかかっていたのは記述の矛盾のせいだけではない。いかなる形であれ、シンボルとして「発見」されてしまったものは、世界を支配する力と結びつき、力を引き出す媒体となる。人はシンボルという『かたち』を手にすることで、扱えないものを扱い、操れないものを操れるようになる。それは便利には違いないが、ともすれば人には過ぎる道具になりかねない。
 「禁止したんだとしても、わかる気がするんだよな」
 ガルトはつぶやくように言った。
 「俺が言うのもなんだけど、使っていいもんじゃねえよ」
 「だから、神のイメージを重ねるんですよ。『ウドゥルグ』にしろ『ヴァリエスティン』にしろ」
 「それはわかる。けど……」
 死と破壊を統べる神。死後の世界に君臨し、この世をも手に入れようと、生贄を求めて地上への封印が解かれるのを待つ、強大な魔。
 なにもそこまで邪悪なイメージにしなくてもいいのに、と、ガルトは思う。イメージで形づくられた偶像に捧げられる命を思えばなおさらだ。
 「なんだか、ありもしないものに振り回されてる気がする……俺もだけど、島の人たちもさ」
 そして、無為に命が奪われていくのだ。
 それが島の人々にとって望ましいことであるはずがない。教団の元暗殺者で、かつ「ウドゥルグ」の力を持つ彼と一般の人々では、教団について知っていることは違うが、彼らが支配を望んではいないということはわかる。
 信徒の目の届かないところで、教団への不満をぶちまける人々。準信徒への目に見えない嫌がらせ。そのような抑圧された形ではあれ、彼らは教団の支配に抵抗を示している。喜々として従っているはずもない。
 それなのに、誰も表だっては教団を非難できない。目をつけられ、殺されるからだ。
 (……いや、それだけなのか?)
 望まれていないにもかかわらず、なぜ600年以上も教団による支配が続いているのだろう。
 何かを見落としているような気はするのだが、その時の彼はまだ、うまく形にすることができなかった。

(end)


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