塔の記憶

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1 焦燥と欠落  

 薄暗い塔の狭い階段に、自分の足音だけが響く。
 ほこりのにおいに混じってかすかに別の匂いがする。ねっとりと鼻腔に残るその匂いは、どこか記憶の片隅に引っ掛かっているような気がするが、どうしても思い出せない。
 ただ、いてもたってもいられない気持が、ディング・ウィルビアーを塔の上へと駆り立てていた。
 盗賊団「アルバトロス」がある商人の邸宅に侵入し、商人の贈賄と価格操作の証拠を盗み出したのが数日前のことだ。商人は信用を失ったことに激怒し、頭領のキースの娘、ターニャを誘拐させてキースのもとに脅迫文を送りつけた。ターニャの命が惜しくば、二度とよけいな詮索をしないと表明しろ、と。
 友人の剣士、ランディ・フィルクス・エ・ノルージは、ターニャが誘拐されたという話に心当たりがあったらしく、ディングを誘って夕刻のケレスに飛び出した。それが、つい先刻のことである。
 ディングはキースに拾われ、家族同然に育てられた。ターニャはいわば、彼の姉のようなものだった。一刻も早く彼女の無事を確認したいと、それだけを念じていた。
 「ここだ」
 ランディは古びた石づくりの扉を押し開ける。
 今は誰もいないはずの塔に、人がいた痕跡があった。何者かが隠れ家に利用しているらしいことが見てとれる。
 彼はランディを残して階段を駆け上がる。なにか考えがあってのことではない。ただ、上の方に何かがあるような気がしただけだ。
 そして。
 息を切らしつつディングは心のどこかにもやもやとしたものを感じていた。言い知れぬ不安な気持がじわじわと心の中を満たしていく。なにが不安なのかディングにはわからなかったし、わかるほどに考えたくもなかった。ターニャに何かあったらと思うといてもたってもいられない。ただひたすら、ターニャの無事な姿を早く見て安心したかった。
 階段はやがて行き止まりになり、脇にある古びたドアが目に入る。
 瞬間、ディングは悟った。
 (奥に何かある!)
 なぜ自分がそのようなことを知っているのかなどわかるはずもない。だが彼は夢中で扉の鍵を開ける。迷宮のトラップとは違い、単純な構造の鍵を開けるにはさして時間はかからなかったが、ディングにとってはそのわずかな間ももどかしく感じられた。
 ディングは扉を開け、部屋の中にあるものを見た──はずだった。

 彼の記憶は、そこでぷつんと途切れている。
 次に彼が気付いた時には既に数日が経過しており、その時にディングは初めてターニャの死を知らされたのである。

 

2 デッドエンド

 薄暗い塔の狭い階段に、自分の足音だけが響く。ほこりのにおいに混じってかすかに感じられる匂いに、ガルトは覚えがあった。
 血の匂い。
 塔の上のどこかで、おびただしい血が流されたのがわかる。それも、まだ新しい。
 (やめろ。それ以上進むな)
 警告の声は、しかし彼の身体の支配者には届かない。その足は階段を足早に昇り続ける。
 (ディング! 止まるんだ。血を流してるのは多分……)
 ディングを塔に連れてきたランディの判断が正しければ、ディングにとって衝撃的な光景が広がっている可能性が高い。だが、ディングにはガルトの声は聞こえない。ガルトの存在さえディングは知らないのだから。
 ガルトにはディングが焦っているのがわかる。この町で盗賊団「アルバトロス」のリーダー、キースに拾われて以来、自分を弟のようにかわいがってくれたターニャが危険にさらされているかも知れないと聞いて、気が気ではないのだろう。
 それに、ガルトには感じることができる。ディングは確かに感じとっているのだ。塔の上で生命がその流れを断ち切られた気配と、生贄を捧げる者の声を。ディングには記憶がないから、それが何かがわからない。ただ嫌な予感のようなものとしか、ディングは認識していないようだ。
 だが、ディングの知覚を通じてガルトにはわかる。塔に連れて来られたのがターニャだとしたら、彼女はもはや生きてはいないのだということが。それも、ダーク・ヘヴン──大陸のはるか北方に位置するヘスクイル島の俗称──の破壊神を信ずるものの手によって。
 ディングの知覚を通じて「ウドゥルグ」を呼ぶ声が聞こえる。生命の摂理をあらわす記号、だがゆがんだ信仰のもとに封印された死と破壊の神と呼ばれてきた力。それが、生まれながらに彼の身に刻まれた力だった。
 かつてガルトはその力を解放し、望まずしてヘスクイル島の町や村を壊滅させた。目の前で破壊神の信徒によって殺された妹を生き返らせたいと一瞬思ってしまったためだ。本来死者は死者でしかない。その摂理の力の持ち主が自ら摂理を乱す望みを抱いてしまったことが、彼の力の暴走を招いたのである。彼の力は、生命あるものをことごとく死に追いやり、彼の両親も犠牲者となった。
 悔やんでも悔やみ切れぬ過去。
 信徒の声、復活を祈って捧げられる生贄。目で見ることなしに感じ取ることのできるそれらの気配は、あの凄惨な事件を否応なしに思い起こさせる。 
 (落ち着け……俺まで冷静さを失ってどうする?)
 ガルトは過去を振り払うかのように考えをめぐらせた。この先には破壊神の復活を願う者がいるのだ。そのことの方が今の彼にとっては火急の問題である。
 (ロルンの奴らだったら……)
 かつて彼が所属していた暗殺者の組織。島を脱出し、その力ゆえに司祭に追われる身で彼らと対面するわけにはいかない。記憶を持たないディングが表に出ていることが今はカムフラージュになってはいるが、顔形は同じなのだ。かつてのガルトを知る者なら、生かしておくわけにはいかない。
 いざとなれば、消す。今までディングと自分を守るために何度もやってきたように。
 ディングは最上階まで登りつめ、鍵を慣れた手つきで外している。彼の焦りが、不安が、痛いほどに伝わってきていた。
 そして、扉が開く。
 息がつまるような血の匂いが鼻腔に流れ込んだ。

 

3 死を恐れる人

 奥になにかが置いてある。ディングの目が、それをとらえた。
 (! いけない!)
 身体の中でなにかが膨れ上がって行くような感覚。自分を中心に世界が渦を巻き、歪んでいく。
 覚えがある。あの、シガメルデの悪夢。
 (やめろぉっ!)
 ガルトは無理矢理ディングを意識の表舞台から引きずり下ろす。
 同時に世界の歪む感覚も、破壊神を呼ぶ気配も消えうせた。単なる魔術師である現在のガルトには、破壊の力も摂理の力もない。
 「間に合った……」
 荒い息を吐き、膝をついてガルトはつぶやく。
 一瞬遅かったなら。
 ケレスはかろうじて壊滅を──シガメルデの二の舞を免れたのだ。
 膝をついたまま、ガルトは前方を見る。
 ターニャの首が、目を向けた先にあった。切り取られ、祭壇らしき場の中心に据えられたそれがもはや生きているはずもない。
 「ひどい……」
 ガルトさえも顔を背けたくなる光景だった。
 首だけではない。内臓から指の一本に至るまで身体の各部分を徹底的に解体され、なにかを描くように丁寧に並べられている。その形に、ガルトは見覚えがあった。
 (やはり、ウドゥルグの信者か……だが……)
 これほどまでに酸鼻をきわめる光景は、暗殺者として育てられ、自身も死の力を振るって大勢の人を死に至らしめたガルトでさえ、これまで目にしたことのないものだった。
 (なんだってこんなことを……)
 島での礼拝で、生贄は首を切り落とされる。生贄には死を与えることが重要なのであり、苦痛を与えたり死者の身体をもてあそんだりするようなことは想定されていない。だが、目の前のターニャの扱われ方は理解を越えるものだった。
 (少なくともロルンじゃない)
 ロルンの者ならば、こんな無駄な殺し方はしない。だが──。
 ガタン、と物音がして、ガルトは我に返る。見ると部屋の片隅に、次の間へと続く扉があった。
 ガルトは立ち上がる。ほとんど反射的ともいえるすばやさで扉に駆けより、開いた。
 「あ……」
 部屋の奥で黒い影が動く。ターニャを殺して解体した魔道士であろう。どうやら知っている顔ではない。明らかに南方系のその顔からは、ヘスクイル島の人間ですらないことがうかがわれる。
 (なぜだ?)
 多少は予想していたとはいえ、それはガルトには衝撃的だった。幼い頃から信仰を強制されたわけでも、恐怖で支配されているわけでもなく、自ら進んで破壊神の復活を信じ、待ち望む者が存在するということは、到底信じがたいことだったのだ。
 魔道士は魔道士で、突然現われた見知らぬ男に驚きの色を見せている。
 「誰だ? ウドゥルグ様の神聖な場を……」
 「神聖だと?」
 いつわりの教義とゆがんだ殺意。破壊神を世に解き放ったところで、死を超越することなどできないのに、妄執にしがみつく者達。
 (死にたくないから他人を殺すことの、なにが神聖だ)
 そこまで、死が怖いのか。
 それでいて、他人を死なせることに疑問を持たないことのおぞましさ。
 滑稽だ……ガルトは思わず笑い出したくなった。
 これが人間というものなのか。
 命に勝手な重み付けを施し、そのことに気づきもしない。
 滑稽で悲しく、そして醜悪な存在。死を恐れるがゆえに生命の流れに身をゆだねることのできない、あわれな者達。
 だが、彼ははっきりと気付いている。
 ──あなたも私と同じ人間なのだということをね。
 自分もそんな人間のひとりだ。シガメルデの事件以前に、彼は暗殺者として見知らぬ標的の命を奪ってきた。家族に累が及ばぬよう、そうするより他に方法がなかったにせよ、それが言い訳に過ぎないことも、許されることではないことも承知している。
 それ以上に、シガメルデの惨劇を引き起こし、今またケレスを惨禍に巻き込みかけた力は、身近な誰かを死から取り戻したいと思ってしまったがゆえに引き出されたものだ。
 そんな自分の力を求めて流される血。
 「ウドゥルグ、か……」
 くっくっとガルトは笑う。嘲笑のなかにどこかあきらめの表情の入り混じる、複雑な笑いだった。同時に身についた自然な動作で宙にシンボルを描く。
 多くの生命を奪った自分が、たった一人の死に激高するのも、そして目の前の人間に明確な殺意を抱いていることも、結局は同じことなのだ。魔道士の行為に憤りを覚えるのも、所詮は近親憎悪なのかも知れない。
 この魔道士がしたことと、自分が今しようとしていることの間に、一体どれほどの差があるというのだろう。
 どちらも同じ人間の、同じ身勝手さでしかない。
 「ならば、おまえの望んだ力であるべき場所へ行くがいいさ」
 ターニャの身体で描かれた紋様。「ウドゥルグ」のシンボル。それは、即死をもたらす記号魔法でもある。
 魔道士は悲鳴ひとつあげずに倒れる。人を殺すのは、あまりにも簡単だった。
 (そういう……ことなのか)
 ひとつわかったことがある。
 「ウドゥルグ」の力を持っていようといまいと、自分もまた、ただの人間なのだ。自分の、あるいは身近な他人の死を恐れ厭い、それゆえに誰かの生命を奪う──死に直面しないでいるために死をもたらす──そんな人間である以上、ディングに力を譲り渡しても結局は同じことなのだ。
 (この力から、俺は逃れられない。でも、どうすれば……)
 ディングに力を譲り渡しても、なんら根本的な解決にはなっていなかった。ならばどうすれば、彼はその力を安定させ、制御していくことができるのだろう。
 ガルトはこの時から、そんな新たな問いを抱え続けることになる。

 やがて時は過ぎ、キースが死んでアルバトロスは解散し、ディングはガイドとしてケレスにとどまることになった。彼をそっと見守りながら、ガルトは考えをめぐらし続ける。
 人間として、人ならざるこの力をいかに制御していくか、と。
 そんな、ある夏の日のことだった。

 

([Path]へつづく)

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