神の表象

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1 依頼

 「ガイドの指名?」
 ディング・ウィルビアーは靴を修繕する手を止めて聞き返した。戸口に立つジェレミー・カッツはうなずき、走り書きがされたメモをひらひらと振ってみせる。
 「ケレスの洞窟探検じゃない。群島の遺跡の探索だそうだが、どうする?」
 「はぁ?」
 ディングは首をかしげた。
 「どうするって、珍しくない? いつもはそんなこと聞かねえで仕事振って来るのに」
 「いや、今回の仕事は結構危険でな。それに……」
 カッツは苦笑する。
 「お客さんがどうしてもおまえに頼みたいっていうんだ」
 「遺跡のガイドなら、カッツの方が慣れてるんじゃねーの?」
 「それはそうなんだが……」
 「ふーん。あ、ちょっと待って。これだけ済ませちまうわ」
 ディングはレーギス鹿の革でつくられた靴底を丹念に貼りあわせ、革ひもで手早くかがっていく。器用に動く手の中で、すりきれかけた靴が見る間によみがえっていった。
 「よし、完成。それでいつからなの?」
 「明後日から。詳しいことはそこに書いてあるし、不明な点は店に直接来てくれ、だとよ」
 「店?」
 ディングは渡された紙を広げて目を走らせる。
 「あれえ? このお客さんって……」
 「知ってるか?」
 「うん。一度行ったことあるよ。『ラドアの道具屋』って、中心街のなんでもそろうって評判になってるところだろ?」
 「ラドアの道具屋」とは、中心街にある小さな道具屋である。「道具屋」というプレートがかかっているだけのそっけない外観とは裏腹に、店内には数多くの珍しい品々がそろえられている。噂では、この店で注文して入手できないものはないという。
 謎めいた店にふさわしく、店の主人も謎に満ちていた。長くつややかな黒髪に黒衣をまとい、常に黒い手袋を身につけている。美しい容姿は見る者によって男性にも女性にも見えるらしい。その上、半年ほど前にケレスにやって来て道具屋を構えるまでの一切の過去も不明である。
 「でもなんで、俺を指名するんだ?」
 「そいつは知らねえ。だがディング、もっと重大な問題があるぜ」
 「?」
 「目的の遺跡、知ってるか?」
 ディングは再びメモに目を落とす。「ジェローム四世島 カウフマン一族の墳墓」と書かれているのを読み、首を横に振った。
 「全然。ここがどうかしたの?」
 「この島は第一級危険区域。中でもその墓はとびきり危険だそうだ」
 ケレスで観光業が盛んになり、それに伴ってうっかりと危険な区域に足を踏み入れて遭難する観光客や、周辺への二次災害が増えていた。当局はこれを重く見て、危険区域をランク別に指定し、ガイドの有無や人数などによって立ち入り制限を加えるようにした。第一級危険区域はその中でも危険度の高い区域であり、ガイドの同伴なしには入ることすらできない。しかも、遭難したとしても自己責任で、被害の拡大を防ぐために救助隊の出動は行なわれない。
 「ますます、俺を指名するわけがわかんねーな」
 「断わってもいいぜ。大体『ラドアの道具屋』ってのは、世界の果てにしかない道具だって仕入れる店だって言うじゃないか。おまえが受けなくてもなんとかするだろうよ」
 「うん」
 ディングはしばらく考え、メモを手に立ち上がった。
 「どーいうつもりか、直接聞いてくるよ。その方が早いだろ」
 「あっ、おい……」
 カッツが止める間もなく、ディングは初秋の夕暮れの町へ飛び出して行った。

 「わざわざすみませんね。こちらからお願いしたことでしたのに」
 道具屋の店主は、にこやかにディングを迎え入れた。店に足を踏み入れると、ひんやりとした空気の中にどこかざわめきのような気配が感じられる。
 「……?」
 視線を感じたような気がして、ディングは周囲を見回した。
 「どうかしましたか?」
 「あ、いえ……なんか見られてるようで」
 「ああ」
 店主は神秘的な笑みを浮かべた。
 「そこの鉢植えかな、それとも後ろの絵か……」
 「えっ?」
 振り向くと、窓際の鉢植えと目が合った。
 比喩ではない。不格好なサボテンのようなその鉢植えには、顔があった。眠そうな一対の目に半開きの口。あまり利口そうではないが、その目がディングに反応するかのようにぱちぱちと瞬きをしている。
 「な、なんだこれ?」
 「サボテンの変種なんですが、いつもこんな風に寝ぼけた顔をしてるんです」
 果物屋の店頭に並ぶ果実を説明するようにあっさりと、店主が言う。この店では日常の常識は通用しない。生きた道具や伝説にしか登場しそうにない秘薬が、あたりまえのように並べられているのだ。
 「……しゃべったり、するの?」
 「いえ。でも……」
 店主は鉢植えのそばに歩み寄り、顔の位置関係でいえば喉にあたるであろう場所を、手袋をはめた手でくすぐるようになでた。
 鉢植えの半開きの口が、へらへら笑っているかのように開く。だらしない顔に、ディングは思わず笑い出した。
 「へ、変な顔。ねえねえ、俺もやってみていい?」
 「どうぞ」
 鉢植えをつついてみると、つつく箇所によって微妙に反応が異なることがわかる。ディングはしばらく面白がって遊んでいた。
 「おもしろい店だなあ、ここって」
 素直といえば素直すぎる感想を、ディングは口にする。常識では考えられないことであっても、ディングはあまり気にする方ではない。もともとあれこれ考えるのは得意でないし、しがみつくほどに日常に縛られているわけでもない。それゆえにこの異様な鉢植えすらも、彼は素直に楽しむことができた。
 ディングを指名した意図のわからぬ店主に対しても、ディングは屈託ない態度を取っていた。もともと客の気持や素性といった個人情報については、ディングはさして気にしていない。一時の旅の案内をするだけの仕事であるし、他人をあれこれ詮索することなどしなくても、少し話せば誰とでも仲良くなれる。謎の店主に対しても、きれいなお姉さんという程度の印象しか持っていなかったし、それ以上はまったく気にしていなかった。
 店主はディングにいすを勧め、本題に入る。
 「ディングさんは、ジェローム四世島に行ったことはありますか?」
 「あー、ないですね。名前しか知らないっす。あと、第一級危険区域なんですよね、たしか」
 ディングは正直に申告する。
 「そうでしょうね」
 店主はうなずく。ディングが目的地の島に対してほとんど何も知らないということを、店主はある程度予想していたらしい。
 「ジェローム四世島は、十数年前までは村もある、ごくふつうの島でした。しかし現在では『死人の島』と呼ばれ、カウフマン一族の墓を中心に死霊が徘徊する場になっているようです」
 「あっ、もしかして、だから俺を指名したんですか?」
 ディングは店主の言葉を遮る。
 「と、言いますと?」
 「俺、そーいうの、見える方だから。あ、でも幽霊退治とかなんとかができるわけじゃないけど」
 「やはり見えるんですか。それは心強い」
 「あれ? 違うの?」
 ディングの予想ははずれたらしい。店主は相変わらず神秘的な笑みを浮かべながら、時間をかけていれた茶をカップに注ぐ。かぐわしい香りがあたりに立ち昇った。
 「いえ、見えるにこしたことはないでしょう。もっともあなたに手を出す死霊などそうそういないと思いますが……」
 「えっ?」
 ディングは店主の言葉の意味がよくわからなかった。店主もそれ以上説明する様子はない。
 「墓とは言われていますが、カウフマン一族の墓所は巨大な地下遺跡なんです。トラップの数が非常に多いそうなので、得意な方にお願いした方がよいかと思いまして」
 「あ、なるほど」
 確かにディングのトラップ解除の腕は、ガイド仲間には広く知られている。ディングもそれで納得した。
 「もちろん、遺跡内部の資料はそろっていますし、できるだけディングさんに危険が及ばないようにとり計らいます。……引き受けていただけませんでしょうか」
 「うーん……」
 ディングは少し考える。
 悪い話ではない。提示された報酬もよい部類だし、要はトラップをはずして地下遺跡の奥に案内すればよいだけのことだ。ざっと地図を確認したところ、遺跡の内部は面積こそ広いものの、さほど入り組んだ構造にはなっていない。死霊の島というのが少し気になるが、ディングは死霊が特に怖いものだとは思っていない。ごくあたりまえに、そのあたりにいるものという程度の認識しかなかった。
 むしろ。
 (死霊でもいいから会いたいのに)
 見える力は、だが、一番見たい者を見せてはくれない。ターニャの死から1年近く。今でも彼女の死に立ち会ったはずの記憶が欠落していることは、彼の心の隅に引っ掛かったままだ。
 ともあれ、仕事として特に断る理由はなさそうである。


2 歪みの島

 が。
 「あれ?」
 ディングは一瞬よろめき、慌てて石塀に手をついて身体を支えた。
 「どうしました?」
 道具屋の店主、ラドアが後ろから呼びかける。
 「あ、大丈夫。なんかつまずいたみたい」
 ディングは振り向いて笑顔で答える。
 ジェローム四世島まで定期船と借りた小舟を乗り継いで上陸したのが数刻前。早朝に足を踏みいれた島に、昼前のまぶしい太陽が光を振り注いでいる。夏の名残か、日射しは強いが、吹き抜けていく微風が秋を感じさせていた。総じて、過ごしやすい天気と言える。
 それなのに。
 (なんか調子悪いな……)
 ディングは首をかしげた。体調が悪いわけでもないのに、上陸してからというもの、どこか奇妙な感じがする。めまいや悪寒に似た違和感のようなものが絶え間なく彼を襲っていた。
 「少し休みますか?」
 ラドアはかつて分岐点だったと思われる大きな木の根元にディングを座らせる。上陸したのは島の南部にある村の跡地だった。島のほぼ中心にある目的地までは、徒歩でほぼ1日かかる。無人の廃墟となって久しいこの島では、徒歩以外の手段はなかった。とはいえほとんど起伏のない平坦な道が続くので、洞窟探検に慣れたディングにとって体力的な負担はほとんどない。だからこそ原因不明の調子の悪さが気にかかる。
 (まあ、しばらくしたらよくなるさ)
 持ち前の楽観的な性格で、ディングはそう思い、荷物から水入れを取り出して一口含む。
 見渡すと周囲には何の変哲もない、のどかな自然が広がっている。道は人が通らないためか、草が生えて荒れた様相を呈しているものの、特に邪悪な気配やこちらをうかがう魔物などの形跡もない。
 第一級危険区域にしては、あまりにも平和な風景である。
 「ラドアさん、ちょっと聞いていい?」
 「はい、なんでしょう?」
 特に疲れた様子もなく、木に身体をもたせかけていたラドアが答える。
 「この島、危険なようには見えないんだけど、ほんとに危険区域なの?」
 「ええ」
 あっさりとラドアは答える。
 「十数年前、地下遺跡に巣食っていた死霊が突然力を増し、平和だった町を襲いはじめたそうです。襲われた人々も死霊となってしまい、島は大混乱に陥りました」
 「でも今はこんなに平和だぜ?」
 「事態を重く見たケレスの治安局が魔術図書館に依頼して除霊を試みたんですが、結局はもとの地下遺跡の最深部に封印するのが精一杯だったそうです。それも、いつ封印が解けて出てくるかわからない、不安定な状態で。ですから、今でも危険区域の指定を外せないんですよ」
 「へえ……」
 ディングはあらためて周囲を見回した。やはりどこから見ても平和な光景である。ただ、言われてみればどことなく、弱い死霊の気配がしないでもない。だが、どうも自分の感覚がうまく働いていないような気もする。調子のせいだろうか。
 「あ、じゃあそういう死霊が襲ってきたりとかするかも知れないの?」
 「そうですね……」
 ラドアはディングの方を向き、にっこりと微笑んだ。
 「大丈夫ですよ。死霊への対策はありますから」
 ディングが想定したできごとは、案外早くにやって来た。適度に休憩を繰り返しながら島の中心部に向かい、もうすぐ地下遺跡にもっとも近い町の跡地にさしかかろうという頃、それは起こった。
 時は黄昏、初秋の夕日が廃墟の建物に落とす長い影が、迫り来る夕闇と溶け合おうとする時刻。
 はあ……とディングはため息をつく。おかしな疲労感とめまい、それに胸のあたりがしめつけられるような圧迫感が、彼を絶えず襲っていた。はじめのうちはそのうちよくなるとたかをくくっていたが、その感覚は時がたつごとにひどくなる一方だ。ラドアが時折心配そうに声をかけてくれるが、ディングはつとめて平気なふりを装う。指名されてまで与えられた仕事を、たかだか調子が悪いなどという事情で中断してはならない。なにより、指名してくれたラドアに悪い──ディングはディングなりの職業意識で堪えていたのである。
 が。
 (大丈夫かなあ。なんなんだろう、これ)
 いつもは楽観的なディングも、さすがにここまでひどい調子だと不安にかられる。とはいえ、夜休めばなんとかなるだろうという希望も持っており、状態の割には深刻ではない。
 「ディングさん」
 ラドアがそっと声をかける。
 「辛そうですね」
 「あ、大丈夫」
 元気を装ってみせるディングをラドアは手で制する。
 「とても大丈夫には見えませんよ。とりあえずこのあたりの建物で一晩休み……」
 声がふっと途切れる。はっとして顔をあげたディングの目に写ったのは、ラドアの背後で生命ある霧のようにふくれあがる黒い影だった。
 (死霊だ!)
 ディングの全身に緊張が走る。普段ならば死霊の姿を見たり、出やすい場所がなんとなくわかったりする──とはいえ、察知したディングに可能なのはただ逃げることだけにすぎない──のだが、身体の不調に気を取られるあまりに注意がおろそかになってしまったようである。
 「ディングさん、伏せてください」
 覆い被さろうとするかのように膨れゆく死霊を前に、ラドアはディングをかばうように立つ。ディングは反射的に身を伏せた。
 (ラドアさん、どうするんだ?)
 ディングに背を向け、死霊に向かって立つラドア。長くつややかな黒髪が、沈みゆく夕日の光を受けてあかね色に輝く。
 ラドアはすっと片手を上げ、なめらかな動作で手を動かす。それはさながら宙になにかを描いているように見えた。まもなく手の動きが止まり、澄んだよく通る声が廃墟に響き渡る。
 (なんだ? うわっ……!)
 ディングの目の前で、死霊の霧の中に光が生まれる。小さな光の玉は急速にその大きさを増し、霧を飲み込んでいく。まぶしいぐらいに光があたりを満たし、やがてふっと消える──その後に、死霊はもはや残されてはいなかった。 
 「お怪我はありませんか」
 ゆっくりとラドアは振り返る。ディングは急いで立ち上がった。
 「平気平気。今のって魔法? すごいなあ」
 「ええ」
 ラドアは曖昧な微笑を浮かべる。魔法に関する知識をある程度持っていれば、ラドアの使った術が大陸ではほとんど見られないものであることに気づいたかも知れない。だがディングは魔法についてはまったく知識がなかった。
 レーギス大陸ではさまざまな流派の魔法が伝わっており、日常のまじない程度のものから国家が天候や自然の管理に利用するような大がかりなものまで、目に触れる機会は決して少なくはない。魔術図書館も、そういった魔法全般の研究機関として知られている。
 だが誰もが魔法を使えるわけではない。機械を扱うことができる者とできない者がいるのと同様、魔法の扱いにも向き不向きがある。ディングは──少なくとも彼の記憶のある数年間は──魔法とは縁のない生活を送っていたし、とりたてて関心もない。持ち前の順応性から、特に魔法に対して拒否反応を示すわけではないが、彼にとってみれば、よくわからないものはみな魔法だった。
 「……ともかく、このあたりで夜明けまで休みましょう。地下遺跡に夜入るのは危険でしょうし」
 「そうだね」
 ディングは薄暗くなりかけた廃虚の中で、まだ傷みの進んでいない建物を探す。大陸でも北部にあたるこのあたりは、初秋といえど夜にはかなり冷え込む。寒さをしのげる場所が必要だった。幸い石づくりの堅牢な建物がいくつも残っており、一夜を明かすにはさほど不自由はなさそうだった。
 かつて集会所だったとおぼしき建物を仮の宿りに定め、眠る場所を整える。めまいと胸の苦しさにいつもの調子が出ないとはいえ、ディングは慣れた強みで手際よく片づけていく。まだ使える暖炉に火を入れ、一通りの寝床をしつらえたディングは、疲れきったようにその場に座り込んだ。
 「……どうしたんだろう。こんなこと、今までなかったんだけどな」
 自分の身体に何が起きているのかよくわからない。普段は楽観的なディングも、さすがにまる一日不調が続くと不安になってくる。
 「ディングさん、ちょっといいですか?」
 ひょっこりとラドアが姿を現わした。
 「これを寝床のまわりに吊ってみましょう」
 ラドアが手にしているのは、大きな目の細かい網のようなものだった。
 「これは蚊帳といって、東方大陸の少数民族が虫除けに使っているものなんです。これで寝床を覆うんですよ」
 言いながらラドアは手早く石づくりの天井から吊り下げ、ディングの分の寝床をすっぽり覆ってしまった。
 「あ、でもここはあんまり虫いねえし……」
 「まあまあ」
 ラドアは半ば強引にディングを中に押し込む。
 「これは少々特別製でして、除けるのは虫だけではないんです」
 「って……え?」
 ディングはきょろきょろと周囲を見回す。
 身体が軽くなったような気がした。
 「これは?」
 それまでディングを襲っていた重苦しい感覚が、少しだけやわらいでいる。何がどうなっているのかわからないが、この「蚊帳」とかいう代物のおかげであることは確かなようだ。
 「どうです? 少しは楽になったでしょう?」
 「う、うん」
 うなずきながらディングはあれ、と思う。ラドアにはディングの調子の悪い原因がわかっているのだろうか。
 (まあいいか、おかげで眠れそうだし)
 そうしてディングは浮かびかけた疑問をすぐ忘れてしまった。


3 駆引

 一方。
 ディングのもう一つの人格であるガルトは、ディングの中で彼が抱きかけた疑問をずっと考えていた。
 (あの道具屋、どういうつもりだ?)
 他人を疑うことを知らないディングのかわりに、ガルトはディングの内面から外の世界を観察し、ディングが危険にさらされるようなことがあれば自分が表に出ることで、ディングを守ってきた。だが、ガルトは今迷っている。
 道具屋の意図が、ガルトにはわからなかった。
 (あいつは、ディングの不調の原因を知っている)
 蚊帳の一件で、ガルトは確信していた。ラドアはこの島でディングが不調を訴えることを知っていたかのように、あらかじめ準備を整えていたのだ。だがそもそも、この島にディングをわざわざ連れてきたのは、ほかならぬラドアである。
 (それにあの魔法は……)
 先刻、死霊を消し去った術を、ガルトはよく知っていた。故郷の暗殺者養成所で魔術師として育てられた彼は、声をほとんど立てずに宙に記号を描くことで発動する魔法に熟達している。実際、ケレスの洞窟の奥底でランディに謀られて死霊に襲われた時、彼自身もまったく同じ魔法を使ったものだ。だが、大陸にその魔法の使い手がいるという話は聞いたことがない。
 (島からの追手だったら、すぐに片付けないと)
 ターニャの件に見るように、ケレスにも破壊神の信奉者はいる。放置しておけば危険だ。この道具屋は破壊神を崇めているようには見えないが、なんらかのつながりがあるのかもしれない。
 ディングは自分の力について、なにも知らない。知らないがゆえに使うこともできずにいるが、もしも彼の力が破壊神の信徒の知るところとなれば──。
 (また、あの時と同じことになる)
 ヘスクイル島──ダーク・ヘヴンに伝えられる、死と破壊の神、ウドゥルグ。その力を持つことが司祭達に知られ、妹を目の前で殺された。人格を分かつ前のガルトはその時力を解放し、周囲の町や村を瞬時にして死の世界に変えた。
 決してそのような結果を望んだわけではない。ただ、妹の死を一瞬だけ拒絶してしまっただけだ。それだけで彼の身に宿る力は彼の制御を離れ、周囲の生きるものをことごとく死に追いやった。
 あのような悲劇だけは、繰り返してはならない。
 ガルトは意識の表舞台に上がる。必要な時以外はディングの意識の底でじっと見守っているが、彼は望む時にはいつもこうしてディングと「交替」することができた。
 「ラドアさん、ちょっといい?」
 ごそごそと蚊帳から這い出し、ディングの言葉づかいに似せながら、ガルトは道具屋に語りかけた。ガルトが表に登場している時は、ディングが感じていた違和感のようなものは感じられない。ガルトには、その力はないのだ。
 「なんでしょう?」
 「俺を雇った本当の理由ってなに? トラップ解除だけなら他の奴でもよかったろ?」
 「……」
 ラドアは笑みを浮かべ、予想外の言葉を口にした。
 「思ったより遅かったんですね。あなたをお待ちしていたのに」
 「?」
 ガルトは一瞬たじろぐ。この道具屋は、誰に対して今の言葉を放ったのだろう。
 「何もご存じないディングさんにお話しするわけにはいきませんから。そうでしょう? ガルト・ラディルンさん」
 考えるよりも先に、身体が動いた。ガルトは何の前触れも見せずに跳躍し、ラドアの背後にまわり込む。ディング愛用のナイフをぴたりとラドアの喉におし当てるまで、ほんの一瞬のできごとだった。
 「……何を知っている?」
 ディングをまねた親しげな口調をかなぐり捨て、ガルトは低く鋭い調子で尋ねた。だが一番当惑し、混乱しているのは他ならぬガルト自身である。反射的に相手の背後にまわり込んで詰問はしたものの、ラドアがどのような答えを返すのか、まるで予想がつかない。ガルトの存在を知っているのはランディだけのはずだったし、その彼も彼の姓までは知らないはずなのだ。
 この道具屋は、何を知っているのか。
 「警戒心の強い方だ」
 ラドアはくすりと笑う。ガルトは無言でナイフに力をこめた。あと少しでも力を加えれば、ラドアの細い首から鮮血が吹き出すことだろう。
 「そこまで警戒なさらなくても、ちゃんとお話しします。私は……あなたの味方のつもりですから」
 「……話せよ」
 ガルトはいったんラドアの首筋からナイフを放す。だがぴりぴりとした殺気はそのままだ。
 「最初に言っておきますが、私はダーク・ヘヴンとは関係ありませんよ」
 「なら、さっきの魔法は何だ?」
 「ガルトさん」
 ラドアは幾分寂しげにも見える笑みを浮かべた。
 「記号魔法は大陸でも伝わっていました。恐らくは私が最後の継承者なのでしょうけれど。だから少なくとも、あなたの島の司祭達よりはあなたがたの力について知っているつもりです」
 「……」
 ガルトは信用すべきかどうか判断に迷ってはいたものの、とりあえず目で先をうながす。ラドアは黒い手袋をはめた手を振ってみせる。
 「私の左手は、触れたものの過去を読む力を持っています。あなたには以前、一度だけ触れさせていただきました」
 「あんたの店に行った時か」
 「ええ」
 あれはほんの一瞬のできごとだったはずだ。背後から触れられたと感じた刹那、彼はその手を振り払ったのだから。
 「この島には、あなたがたが手にすべきものがあります。この島へ来ていただいたのは、それを取り戻し、あなたがたの手に返すためなんですよ」
 「何のことだ?」
 ラドアは笑みを浮かべたまま、答えない。
 「……」
 ガルトは道具屋の言葉の真意をはかりかねていた。そもそもラドアは誰に対して今の言葉を言ったのか。元暗殺者の魔術師ガルトにか、それとも……。
 「様子を見ている。俺はいつでもあんたを殺せるし……それに俺達の過去を知っているというのなら、ディングの力にむやみに関わったときの結末も知っているはずだ」
 「肝に銘じておきます」
 ラドアはガルトの脅しにもまったく動じていない。どこかからかわれているような気がして、ガルトは明らかに不愉快な表情を見せたが、そのまま無言で引き下がることにする。
 (もう一つ、問題があるな)
 道具屋の真意を問いただすつもりが、どこかはぐらかされた形になってしまったガルトは、うとうとと眠りかけているディングの意識の片隅でもの思いにふける。
 (明日このまま遺跡に入ったら、ディングが苦しむ)
 ディングを襲う不調の正体に、ガルトは気付いていた。遺跡を中心に渦巻く、生命の摂理を乱す力。生命を正しい方向へ導く力を持つディングは、自分では気付いていないものの、その力を乱し、ねじ曲げる力に無意識のうちに反応しているのだ。強い力が加われば反発力も強まるように、ディングの力が乱れに耐えかねて本人の意志とは無関係に解放されてしまうこともありうる。ガルトはそれを懸念していた。
 (俺が出ていた方がいいんだろうか)
 だが、彼にはディングのようにトラップを解除することはできない。トラップが多数仕掛けられているという遺跡では、ディングの手がどうしても必要なのだ。
 かといってディングに力の制御の仕方を知らせることもできない。なにしろディングはガルトの存在すら知らないのだ。
 (どうすればいい?)
 打つべき手が見つからない。
 今のガルトには、ディングを見守り、最悪の事態にならないよう祈るしかなかった。
 心と力が分かたれていることが、これほどまでにもどかしく思えたことはなかった。


4  内なる他者

 翌朝。

 ディングは夜明け前には起き出して出発の準備を整える。事前にラドアに渡された資料では、地下遺跡の最深部までは数刻もかからないらしいが、トラップが多いことと死霊の危険を考えれば、早めに出発しておくにこしたことはない。死霊の徘徊する遺跡の中で夜を迎えることはできるだけ避けておきたいのだ。
 ケレスの魔術図書館──魔術研究の水準の高さには大陸でも定評がある──ですら一ヵ所にとどめ置くのがやっとだったという場で、死霊に太刀打ちできるとも思わない。いざ襲ってくれば、ラドアの魔法もあるだろうとは思っているが、それでも危険なことには変わりがないのだ。
 相変わらす重苦しい圧迫感に襲われているが、不思議なことに、昨晩よりは幾分かましになったような気がする。このぐらいなら、なんとかなるだろう。
 「調子はどうですか」
 いつの間にかすっかり支度を整えたラドアがどこからともなく現われた。ディングは礼を言って小さくたたんだ蚊帳を返す。
 「おかげでぐっすり眠れたよ。やっぱりなんでもそろう道具屋さんってすごいなあ」
 「ふふ、そうですか?」
 ラドアは謎めいた笑みを返す。
 「そのためにはこうして危険な所にも行かなければならないのですけれどね」
 「そうかぁ……でもさ、トラップは任せてくれよな!」
 ディングはいつもの屈託のない笑顔を見せた。
 まもなく二人は墳墓の扉の前に立つ。ケレス魔術図書館による注意書きがべたべたと貼られているが、年月の経過のせいか、かすれたりにじんだりしているものが多い。
 「これ、何が書いてあったのかな?」
 「ここに埋葬されていた死者が915年頃に突然死霊として墳墓から出てきた。彼の力によって死者はことごとく死霊となってよみがえり、集落で生活していた人々に襲いかかって仲間を増やしていった。919年に当局の指示によって図書館の生命魔法研究科が死霊達をこの墳墓の中に封印したが、この中は死霊を作り出して操る場となっており、死霊も多いので、探索者の安全は保証しかねる……こんなところでしょうか」
 「入っても大丈夫なわけ? 封印解けたりとか……」
 「ああ、生きた人間が出入りする分には大丈夫ですよ。ただ、中の死霊を荒れさせてしまうと危険かも知れません」
 「ってことは、なだめながらそっと入る分には大丈夫ってことか」
 「ええ、そういうことです」
 ラドアは悠然と微笑んで墳墓の扉に手をかけた。

 まもなく。
 「マジかよーっ」
 途方に暮れたディングの声が、地下遺跡に響いた。
 ディングが音をあげるのも無理はない。遺跡には一歩歩くごとにといってもおかしくないほどにトラップが仕掛けられていた。ディングにしてみれば、ひたすらトラップを解除する作業に追われている。死霊がどうのと言っている場合ではない。
 「いくらなんでも多すぎるぜ、これって」
 「そうですね」
 ディングの独り言に近いぼやきに、ラドアはきちんと合いの手を入れる。
 「それに……私にもわかるぐらいに目立つように設置されているんですね」
 「そうなんだよなー」
 ディングは前方にまっすぐ伸びる道を眺める。ラドアの持つ蛍草のあかりにぼんやりと照らされた床や壁のいたるところに、いかにも何か仕掛けられていそうな突起やワイヤーが見えた。巧妙に隠されている古いものもあるが、トラップの大半はかなり新しいもののようである。
 「なんだか、わざとトラップがあるのを見せつけてるみたいだ」
 「ええ、まるで先へ進むなと言っているようですね」
 「それもあるけど……なんだろう、これ」
 ディングが不可解に思うのは、数の割には個々のトラップの質が低いことだ。既に故障しているものもあるし、仕掛けも単純だった。ガイドの練習用に販売されているものも混じっている。転がる岩を落とすトラップが、坂を下ったところに仕掛けられていることさえある。
 「仕掛けたのは多分、あんまり詳しくない奴なんじゃないかなあ。地形とか威力とか、あんまり考えてないっぽいぜ」
 「もしかすると、こういうことなのかも知れません」
 ラドアがディングの手元を照らしながら言った。
 「死霊を刺激することを恐れた人が、誰もここに入れないようにと、とにかくありったけのことをした……恐怖にかられて、トラップの効果を計算することも忘れてね」
 「ああ、なんかそんな感じだなー」
 ディングが納得しかけた時。
 (……あんたが言うなら、そうなんだろうよ)
 どこかでそんな皮肉めいた声が聞こえたような気がした。
 「えっ?」
 周囲を見回すが、声の主は見あたらない。
 「どうかしました?」
 「いや、なんだか声が……」
 「声? なにも聞こえませんでしたが」
 「? おかしいなあ」
 ディングは首をかしげる。ひどく聞き慣れた声だったような気がするのに、誰だか思い出せない。
 (それになんだろう。誰かがすぐそばにいるような……)
 死霊を見たり気配を感じたりするのとは異なる感覚だった。誰かが自分を気遣って寄り添っているような、一人ではないような感覚が、朝からずっと続いている。
 (まあ、いいか)
 理解できないものをむやみに考えていても仕方がない。ディングは話題を戻す。
 「けど、そこまで怖がるってどういうことなんだろう」
 「さあ、そこまでは……ただ……」
 ラドアがどこか意味ありげに言う。
 「ただ?」
 「十数年前、死霊が突然力を増したのは、その時ここを探索していた一団の誰かが偶然に持っていたあるものが原因だった……という噂があるんです。それが本当なら、その時に中にいた人々が逃げ戻る時、慌てて仕掛けたものだったのかも……」
 「なるほど。あ、じゃあもしかして、図書館の封印が完全じゃないのって、このトラップのせいで奥まで行けなかったからとか?」
 「……ありえますね」
 二人は顔を見合わせた。もしもそうならば、なんとなく間の抜けた事態と言えなくもない。
 「しかし、なんかトンネル掘ってるみたいな作業だよな、これって」
 一つ一つのトラップをまめに解除しているため、なかなか前に進むことができない。だが、こうしなければ進めないのだ。
 「トンネルならば、いずれ抜けますよ」
 ラドアの言葉通り、一本道になっている通路に異常なほどに仕掛けられたトラップは、ある地点でぱったりととだえているようだった。
 「やれやれ。なんとか先が見えて……」
 ディングがほっと一息ついた、その時。
 カチリ。
 かすかな音が聞こえた。ほぼ同時に、ぎい、と何かが開くような音。
 (しまった!)
 新しく数の多いトラップに気を取られ、うっかり見落としていた古いトラップ。
 背後に巨大な影がゆらりと立ち上がる。古代語魔法と連動し、起動させると魔法で造られた怪物が襲いかかるようになっているトラップだったらしい。熊に似た怪物が二人に迫りつつあった。解除前のトラップ群と怪物に挟まれる形でディング達は立ちすくむ。
 「ラドアさん、よけて!」
 ディングは叫ぶ。トラップを解除し損ねた責任は自分にある。この場を切り抜けるのに、ラドアをあてにしてはならない。ディングのガイドとしての職業意識だ。とはいえ彼には、ナイフを投げるぐらいしか攻撃の手段はない。手に余ることはわかりきっていたが、もはや逃げ場はない。
 怪物が鋭い牙をむき出しにしてこちらの隙をうかがっている。猶予はない。
 (どうすれば……)
 必死に頭をめぐらす。何か方法はあるはずだという確信がどこかにあった。
 (火を!)
 そんな声が聞こえた。いや、自分が発した声だったか。
 (あ、そうか)
 ふとある考えがひらめき、ナイフを構えかけていた手をいったん下ろす。
 (なんで忘れてたかなー?)
 手がごく自然に動き、宙にシンボルを描く。短く発動の言葉を発すると、怪物の鼻面に炎の球が命中する。のけぞる怪物の喉元にナイフが続けざまにつき立った。よどみのない動作はすばやく、怪物に反撃の隙を与えない。
 たまりかねて怪物は通路を入口に向けて逃げ出し、脇道に消えていった。
 「なんとかうまくいったかな」
 「戻って来ませんか?」
 「たぶん大丈夫だと思う。あの手の魔法生物って、トラップを起動してから少しの間しかもたないんだ」
 ラドアの問いに答えた彼は、ふっと首をかしげたままの姿勢で黙り込む。
 「あれ……俺って……」
 「ガルトさん?」
 ラドアの言葉に彼はゆっくりと振り向き、笑い出す。その表情はいつものディングの屈託のないものとは明らかに違っていた。かといって、今までのガルトの、影のある皮肉めいた笑いでもない。
 「やっぱり、はじめから仕組んでたんだ」
 「何をです?」
 「俺達を一つにすること。違うか?」
 ラドアに「ガルト」と呼ばれた彼は、だが先刻までのディングの意識の中にいたガルトではない。摂理の力と過去の記憶をともに持ち、ディングであると同時にガルトでもある、そんな人間であった。
 ラドアはいつもの謎めいた微笑を浮かべて答える。
 「違いますよ。私が仕組んだのではなく、あなたが選んだのです。私はただ、その選択を容易にできるように手を貸しただけ」
 「うわ、いかにも詭弁っぽい」
 残りのトラップを解除しつつ、ガルトはおどけた口調で答えた。
 「トラップを解除する技術と魔法と摂理の力をみんな使いこなさないとやってけない場所にわざわざ連れて来ておいて、よく言うよなー」
 「そうですか?」
 ラドアは動じた風もなく、いつものおっとりとした返事をよこす。
 「まあ、あのままじゃどうしようもなかったから、いいんだけどな」
 ガルトは苦笑した。人格が分かれているという状態は、考えてみるまでもなく普通ではない。島で自分がしたことをある程度冷静に振り返ることができるようになるまでは、不安定な感情によって力を暴走させることがないようにしておかねばならなかったが、今はその時期を脱しつつある。ラドアの意図はわからないが、ガルトにとってはむしろ好都合と言ってよかった。
 分かれていた時には想像もできなかったが、トラップを解除することも魔法を使うことも、どちらも自然にこなすことができたし、ディングであった自分の過去もそうでない自分の過去も、どちらも「自分自身」の過去の記憶として違和感なく思い起こすことができる。生まれた時から呼ばれてきた名は「ガルト」だ。だから自分の名は「ガルト」なのだと思う。
 「で、こうなるのを待ってたんだろう? そろそろ本当の目的を話してくれないか」
 「ええ」
 今度はうなずいてラドアが話し出す。
 「『死神の額飾り』をご存じですか?」
 「!」
 ヘスクイル島の首都、レブリムに伝わる秘宝の名だ。破壊神の額を飾る、銀の蛇。古い言い伝えでは破壊神を助け、時には彼を乗せて空をも飛ぶという。
 「18年ほど前にレブリムの宝物庫から行方不明になったことは?」
 「いや……知らない。庶民に知らされるようなことでもないしさ」
 「『死神の額飾り』は、逃げ出したんです。自らの意志でね」
 「?」
 ガルトは首をかしげる。その様子にラドアはおかしげに笑った。
 「不思議ですか? 人々の信仰によって規定され、それにふさわしい姿と力を持つことが」
 意味ありげな言葉だった。ガルトは聞きとがめる。
 「どういう意味だ?」
 「あなたと『死神の額飾り』は、同じ信仰の中でそれぞれの役割を与えられてきたんですよ。だからあなたが誕生すると同時に、彼女は目覚めた。ところが、あなたに出会う前に、島外の冒険家に捕らえられてしまったんです」
 「……」
 ガルトは先をうながすようにラドアを見る。にわかには信じ難いが、途中で口をさし挟むべきことでもない。
 「冒険家は不用意にも、彼女を携えたままこの遺跡に足を踏みいれてしまい、彼女は死霊達の力の源として捕われたままになっているんです」
 「それが、この遺跡が危険になった真相?」
 「そういうことです。そして、彼女を取り戻すことができるのはあなただけ」
 「それで? 俺にどうしろと?」
 破壊神信仰の中で結び合わされてきた存在と出会う。それは彼を破壊神の方向へと向かわせることになるのではないか。ガルトにはそれが気がかりである。
 「力が不安定で、困っているんでしょう?」
 ガルトはどきりとした。記憶も力も取り戻した今、些細なきっかけで死をふりまいてしまうことを止める方法はない。
 ウドゥルグの力を持つことから、自分は逃げることができない。たとえ心を分け、記憶を封じていたとしても、それではなにも解決しなかった。
 「彼女に会いなさい。きっとうまくいきます」
 ささやくようなラドアの声に、ガルトはくすりと笑う。
 「あんたには未来も見えてるんだな」
 「さあ、どうでしょうか」
 曖昧な返答は、肯定とも否定ともとれる。
 「まあいいさ。要するに額飾りを取り戻せばいいんだろう?」
 額飾りが自分にどんな影響を与えるか。気にかからないわけではなかったが、どのみちここまで来て引き返すのもつまらない。第一、これは仕事だ。ラドア以外のケレスの人間にとって、彼は未だにガイドの「ディング」なのだから。


5 人と神のあいだ

 トラップを解除し、さらに進んだ奥は、不気味なほど静まり返っていた。
 鼠や蝙蝠の姿も見あたらない、死の静寂に満たされた空間。
 ドーム型の天井になっている広間があり、そこから八方に細い道が延びていた。道のわきには小部屋がいくつもあり、どうやらその中には棺がおさめられているようだった。
 「ラドアさん、わかる?」
 ガルトのひそめた声は、それでも地下遺跡の壁に響きわたる。
 「ええ。大勢の死霊がいますね」
 「来たな……」
 ガルトが舌打ちまじりに言う。侵入者を察知したのか、そこかしこににじみ出るように、黒い死霊の影が現れていた。
 「どうしますか?」
 「……」
 返事の代わりに、ガルトはシンボルを描き、発動させる。
 「前進」のシンボルしか描いていないにもかかわらず、ガルトの正面からにじり寄ってきていた影が消滅した。
 「さすがですね」
 ラドアがつぶやく。
 「前進」のシンボルは描くのが簡単だ。「ウドゥルグ」の力を使うことのできる彼は、死霊を浄化するのに「ウドゥルグ」のシンボルを描く必要がない。「前進」のシンボルを描いて発動させるごとに、狙った死霊が浄化されていった。
 「こちらです」
 ラドアの指し示す方向の死霊を一掃し、なおも追いすがる黒い影を振り切って、二人は小道の一つに駆け込んだ。
 細い道は下り坂になっている。坂を下りきったあたりに閉ざされた扉が見えた。
 「あの扉の向こうに彼女がいるようです」
 「そうか……」
 ガルトは答えつつ、遺跡の壁にそっと触れる。石づくりの墓所。長年にわたって様々な人々が埋葬されてきたのだろう。
 彼には、摂理を乱す力の渦の存在が感じられる。生命をあるべき流れから遠ざけ、ゆがめる力。その力が生命の一部たる人の意志によって産み出されることも、彼は知っている。
 (人って……死から逃れたいものなんだよな)
 痛いほどにそれがわかるのは、自分もまた、同じ人間だからだ。
 (だからといって摂理を曲げてまで死なないのは正しいことじゃない。でも……)
 ガルトは、生命のあるべき姿を知っている。だが、それが人間にとって受け入れがたい現実になりうるということも、身を持って知っている。
 だからこそ、それに抗ってしまう人間が、悲しく思えてならない。
 まして抗う意味すら忘れ、ただ留まるよりほかにないさまは、哀れにすら思える。
 生命の流れの中にとうに還っているべき彼らが、なぜここに留まっているのか。
 嘆き、苦悶、懊悩──そんな声が死霊の気配とともに立ち上ってきているような気がする。
 「額飾りが死霊に力を与えてるって、さっき言ってたよな」
 「ええ」
 ラドアが首をかしげるようにして、こちらを見る。
 「取り戻したら、奴らはどうなるんだ?」
 「もとの状態に戻るでしょうね。ここから出られない、ただの死霊に。ですが、それがなにか?」
 「……いや、いいんだ。行こう」
 ガルトは頭を振る。
 放っておけないと思った。力を失い、あるべからざる姿でこのまま嘆き続けるであろう死霊達。彼らから額飾りを取り戻し、素知らぬ顔をして立ち去ってしまうことなど、できるのだろうか。
 ダーク・ヘヴンの暗殺者であった頃の彼ならば、そんなことは考えもしなかっただろう。ケレスのガイド、ディングには、自分に何かできる可能性など思いつかなかっただろう。
 二つの心がひとつになったことの意味を、彼はまだ知らない。

 扉を開けると、死霊の気配がさらに圧倒的な波となって二人を襲う。額飾りによって力を増し、島の住人達を滅ぼした、かつて人であったものたち。
 「く……」
 ガルトは二、三歩よろめいた。 ただ死霊がうごめいているだけではない。
 あるべき法則の失われた世界が、彼の目の前に広がっている。それが全身で感じられた。
 身体の奥底から、なにかが激しい勢いでわき起こってくるような気がした。
 摂理の歪みに反発し、正そうとする力。
 だが、ガルトは自分の身体からその力が放たれるのを堪えていた。一気に解き放ってしまえば、死者を浄化するのみならず、生きている者を死に追いやってしまいかねない力だ。だからこそ、うかつに放つわけにはいかない。
 それに、彼は感じ取っていた。
 摂理をゆがめるほどの、彼らの苦しみを。
 嘆きと呪詛が行き場を失い、渦を巻くようにこの地の底でのたうつ。それが摂理の歪みをもたらし、彼らを呪縛し、そして死霊達は、さらに行き場を失って呪詛をつのらせるのだ。
 (やめろよ)
 我知らず、そんなつぶやきが洩れる。
 (やめろよ、もう十分だろう?)
 聞こえるはずもない。だが、そうつぶやかずにはいられなかった。
 悲しみだろうか、それとも憐れみだろうか。
 いたたまれない。
 そう、こんな苦しみの声を、俺はずっと聞いてきた……。
 いつからかわからぬほど、ずっと。
 だからこそ。
 (もう終わらせろよ……楽になってくれ)
 額が熱い。頬を伝うのは、涙だろうか。
 (俺が送ってやるから)
 そう思った瞬間。
 すべてが反転したような気がした。

 ラドアはその様子を無言で見守っていた。
 死霊を死にきれない存在としてとどめる場に、ガルトが向けた悲しげなまなざし。その姿に変化が起こりつつあることに、おそらく彼自身は気づいていないだろう。
 額の中央──ちょうどほくろのあるあたりに、縦に裂け目が走る。
 少しずつ裂け目は左右に拡がる。裂け目からは血が流れ、鼻筋を伝って落ちる。
 そして……。
 目が開く。
 ヘスクイル島に伝わる破壊神 「ウドゥルグ」の像と同じ、闇色の第三の目が、ガルトの額に開きつつあった。
 「俺が送ってやるから……」
 ほとんど声にならないつぶやきと同時に、完全に開いた目。
 死霊たちが、瞬時に消え失せた。

 急に、なにもかもが理解できたような気がした。閉じていた目を開いたかのように、それまではっきり見えなかったものが見える。生命の流れがあるべき姿に正され、島を覆っていた死の気配も消え去ったのが、はっきりと感じ取れる。彼にはそのことが至極あたりまえのように思われた。
 ガルトは、部屋の中央へ歩み寄る。今まで気がつかなかったのが不思議なくらいに、彼にとって特別な光を放っているものが、そこにあった。
 銀色の、翼ある蛇をかたどった額飾り。
 「イーシュ」
 彼はその名を──それまでに聞いたこともないはずの、額飾りにつけられた名を呼ぶ。
 額飾りが、呼びかけに答えるかのように、ぴくりと動いた。生きている蛇のように頭をもたげ、赤い目をガルトに向ける。
 「待たせたな」
 その言葉に答えるように、蛇の小さな身体が跳躍する。まっすぐに飛び、ガルトの腕にするりとまきつき、そのまま動かなくなる。こうなると、ただの蛇をかたどった腕輪にしか見えない。
 「……怖かった、ってさ」
 苦笑混じりにガルトが言う。
 「聞こえるんですか」
 「ああ……だめだな、これで一気にウドゥルグに近づいた気がする」
 「ガルトさん」
 静かに、淡々とラドアはその言葉を口にした。
 「あなたは、ウドゥルグなんですよ」
 「……」
 ガルトの目がわずかに険しい色を帯びる。だがすぐに彼は首を振り、自嘲気味に言葉を吐いた。
 「は……今までの苦労は無駄だったってことか」
 「逃げていても解決にならないことは、あなたが一番よくわかっていることでしょう?」
 「……」
 「あなたはウドゥルグですが、破壊神として存在するかどうかは、あなたが選ぶこと。私は……あなたがその力を意志のもとに置くことができるようになってもらいたかったんです。望まない形で、望まない力を使ってしまわないためにね」
 そのために。
 この道具屋はガルトを地下遺跡へといざない、分かれた心を一つにさせ、額飾りを取り戻すようにし向けたというのか。
 「なぜ……」
 問いを発しかけて、ガルトははっとしたようにラドアを見つめる。額の目がまっすぐにラドアをとらえていた。
 「そうか。あんたも……俺と同じなんだ」
 「……」
 ラドアの目に、一瞬、ひどく複雑な表情がよぎった。
 「ヴァリエスティン、というシンボルがありました。ウドゥルグと同じように摂理を司る、ロー・シンボルと呼ばれるものです」
 「ヴァリエスティン……」
 初めて耳にするシンボルの名だ。
 「因果の非可逆性を表す──選択された結果は覆せない、ということなのですが、ウドゥルグと同じように、継承する者達の中で徐々に神格化されていきました。ヴァリエスティンは、左手で過去を、右手で未来を読み、運命の糸を操る『運命の神』なんです」
 「だからなのか……」
 ヘスクイル島の出身でないにも関わらずシンボルを操り、ガルトの過去を知っていたラドア。運命の神として信じられたシンボルの力を持つ者。
 「俺がこうなることも、あんたには見えてたわけだ」
 「いいえ」
 ラドアはきっぱりと否定する。
 「私は、あなたに右手で触れたことはありませんよ。それに……私に見える未来は、蓋然性の未来なんです」
 「がいぜんせい?」
 「起こりうるあらゆる未来。どこで誰がどう選択するのかで変わっていく。未来は決定されてなどいないのですよ」
 「それじゃあ……」
 ガルトがもし、意志によってウドゥルグの力を制御できなかったとすれば。
 シガメルデのように、この島もまた死に支配された地になっていたのかも知れない。その時、ラドアは無事で済んだろうか。
 「ここに来たのも、やばい賭けだったかも知れないんだ」
 「……かも知れませんね」
 いつものように、ラドアは微笑する。内面を垣間見せない、悠然とした笑み。ラドアの表情からこの笑みが消えたのを、ガルトは見たことがなかった。
 「ですが、道具屋のお節介はここまでです。あなたの力をどうするかは、あなたの意志で決めていくことですから」
 「そうだな……」
 ガルトはふと遠い目をした。

 あの日から、ずいぶん遠くへ来てしまったような気がする。
 シガメルデを壊滅させ、島を脱出し、ケレスで二つの心を抱えて生きてきた。もう4年近くになるだろうか。
 だが、まだなにも変わってはいない。暗殺者達は任務を遂行し続けているのだろうし、いつもきまった時刻に感じる、破壊神の復活を願う祈りと捧げられた生贄の血の気配も、絶えることはない。
 何をするべきか、何を望むべきか。この力を、いかなる意志のもとに支配すべきなのか。
 答えは、これから自分が見つけていくしかない。

 地下遺跡の奥底で、破壊神の姿をした青年は、その重みをひしとかみしめていた。

(end)


あとがき

パソ通時代のTRPG風リレー小説の会議室で進めていた部分を、オリジナル設定に改変したものです。当時の会議室でのやり取りが他の人達のキャラとかかわってくるので、今まで独立した小説にできませんでした。人格の統合と額の目とイーシュと、全部いっぺんに詰め込んでしまったのはやや急ぎ過ぎだったかも。

これ書かないと話がまとまらない、というターニングポイントに位置する話です。「シニフィエ」だけなら多重人格の話をする必要はなかったわけだし。

ちなみにディングは、暗殺者として妹ぐらいしか理解者のいない生活を送ってきたガルトにとっての「こうありたい自己」(エリアといる時の笑顔ができる自己)の投影。抑圧していた自己イメージを顕在化してしまったせいで、世話好き度が大幅にアップした……ということは、きっとガルトは少年時代「人に親切にして喜ばれてみたいのに暗殺者だからできない」ことに悶々としていたに違いない!?

……誰も見てないと思って好きなこと書いてるな私……。


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