水の追憶・二


「ソロン様は、私の師なんだよ」

 山道を下りながら、サピアは言った。

 返事はない。それはわかっているが、彼はつとめてサーレントに語りかけるようにしている。サーレントが話をちゃんと聞いていることは、その表情から明らかだし、こうして話しかけ続けることで、いつか口を開いてくれるのではないかという期待もあった。

「ここで修行したのは、もう何年も前のことになるがね。いまでも、きのうのことのように思い出すよ」

 沈黙の中で、サーレントは何を思うのか。

 サピアにはわからない。だが、そうせずにはいられない事情があったのだろうということは、おぼろげながら理解できる。

 不意に、ざざっという音がして、サピアは振り返った。サピアの後ろを歩いていたサーレントが、地面に膝をついている。なにかにつまずいたらしい。

「サーレント! 大丈夫か?」

 サピアの呼びかけに、サーレントは顔を上げ、照れたような笑みをうかべてうなずいた。転んでしまったことをきまり悪がっているのだろうか。

「立てるか?」

 サピアの差しのべる手につかまり、立ち上がろうとしたサーレントが、顔をわずかにゆがめた。つないでいない方の手で足首に触れ、首をかしげている。

 サピアはサーレントを座らせ、足首のあたりを調べる。外傷はないが、触れると痛そうな顔をすることから見て、どうやらひねったようだ。

「痛むかい?」

 サーレントがうなずく。サピアは少し精神を集中するようなしぐさをして、低くなにごとかをつぶやき、サーレントの足首にそっと手をあてた。

「…レフルス」

 サーレントの目が見開かれる。痛みがすっとひいていくのが、はっきりとわかったのだ。思わず顔を上げるサーレントに、サピアは微笑みかけた。

「これが、言霊だよ」

「…!」

 サーレントの口が、なにか言いたげに開かれた。

 が、それは一瞬のことだった。はっとしたような表情とともに、口は閉じられ、サーレントは無言のままに頭を下げる。どうもありがとう、ということなのだろう。

 サピアは何も言わなかった。ゆっくりと立ち上がり、さあ、というように手ぶりで促して歩きはじめる。

 サーレントの反応について考えながら、サピアは歩く。

 開きかけた口。しまった、とでも言いたげな顔。

 その表情を、サピアはどうしても忘れることができなかった。

 この幼い少年が口をきかないのには、深い理由がある。それは以前からわかっていたことだったが、「言霊」という言葉に反応したかに見える様子が気にかかる。

 そういえば、ソロンの庵で言霊の話をした時も、どことなく元気がないようだった気がする。その時は気付かなかったのだが。

 この子の抱えているものと「言霊」に、なにか関係があるのだろうか。いつかサピアにも話してくれる日が来るのだろうか。

 

 数日後。

 サピアは一人でラング島に向かった。サーレントの故郷。沈黙の理由は、恐らくこの島にあるはずだ。

 ラング島は、サピアの住む大陸南岸から、さらに南に行ったところにある。浜辺から見えるほどの近さで、海が凪いでいれば、小舟でも行き来できる。

 半年ほど前、ラング島で大洪水が起きた。村を流れる川の上流にあった、古代遺跡のダムが決壊し、降り続いていた雨で増水した川の水が、村を押し流してしまったのだという。サピアがサーレントを乗せて浜辺に打ち上げられている小舟を発見したのが、洪水の翌日。聞いた限りでは、生き残っている者はいないということだから、恐らくサーレントがただ一人の生存者なのだろう。

 小舟を降りたサピアは、あたりを見回した。

 かつては平和な村だった廃墟を。

「…ひどいな…」

 あたり一面に雑草がおい茂っている。道や広場だったと思われるところにも、泥をかぶった廃屋にも。

 村の中央を流れる川…ここが増水したのだろう…その岸にわずかに残る石組みは、流されてしまった橋の跡だろうか。

 人が最近ここを訪れたという形跡はない。洪水前にはこの島に立ち寄っていた定期船も、航路を変更して久しかった。洪水直後に定期船の船員達が村の惨状を発見し、村人の遺体を埋葬したのだという。片隅に盛られた土が、そのなごりだろうか。

 サーレントの沈黙の理由を探すべく、サピアは草をかきわけ、上流に向かった。シーニュと呼ばれる遺跡があり、はるか昔にダナン神族が造ったダムと伝えられている。この古いダムが決壊しなければ、洪水にはならなかったはずなのだ。

 シーニュ遺跡は、意外に近くにあった。建造当初は険しい谷間の底を流れる渓流にあったのだろうが、二万年の月日はあたりの地形をすっかり変化させてしまったようだ。崖も谷も既になく、道沿いに流れる川の中途に、石の壁がそびえ立っている。…いや、以前はそうだったのだろう。今では崩れかけた石だけが残り、無残な姿をさらしていた。時と水の流れが遺跡を破壊し、村を壊滅させたのだ。雨で増水して高まった水圧が、古くなった石をつき崩し、水門を押し流し…そして…。

 サピアは残った石組みを、丹念に観察する。石は古く、いつ崩れてもおかしくなさそうだった。だが、本当に自然に崩れたのだろうか?  激しい水流に押し流された石を、サピアは丹念に追う。遺跡跡だけでなく、周辺の岸辺から、はては川の中まで。

 やがて彼は、岸近くの川底から、目指すものを見つけた。

 黒ずんだ石を手に、だが、サピアの表情は沈んだままだ。

 恐らく彼は、洪水の真相をつかんだ。そんな手ごたえはあった。だが、それでどうすればよいというのだろうか。幼くして、何もかもを失ってしまったサーレントに、真相を告げること…それは、かえって残酷なことではなかろうか。

 帰ってからも、サピアは何も言い出せなかった。サーレントが無言で、しかし心配そうな目を向ける様子に、少し心が痛んだ。

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