水の追憶・一


 山頂にほど近い庵。一人の老人がペンを取り、書物に何やら書き込んでいた。

「ソロン様」

 言霊師の声に、老人が顔を上げる。年齢も定かではないほどに年老いてはいるが、知性と見識を兼ね備えた風貌には威厳すら感じられる。

「おお、サピアか」

「ご無沙汰しております」

 言霊師サピアは、丁重に挨拶する。サピアの後ろに隠れていた少年も、ぴょこんと頭を下げた。

「大過ないようじゃな、その子は?」

「せんだって、ラング島の大洪水で壊滅した村の子どもです。小舟に乗せられて、浜に流れ着いたところを見つけました」

「ほほう、利発そうな子じゃの、名は?」

 少年は少し困ったような表情を見せる。答えたのはサピアだ。

「サーレント、と申します」

「ふむ…」

 ソロンはあらためて、幼い少年に目をやる。

 その時。

 ソロンの脳裏に浮かぶ映像があった。この世の理を知る賢者の予知。それはめまぐるしく移り変わってゆく、あざやかなイメージである。

 見たことのない、巨大な石碑のような石、この世ならぬ生物、黒い光を放つ玉、あざやかな色を放つ壺のような装置、死人の徘徊する村、そして…月。

 予知はイメージの集合体だ。それを読み解き、予言とするのは賢者たるつとめである。だが…。

「ソロン様?」

 サピアが声をかける。ソロンは思慮深い目に宿る表情をそっと隠し、うなずいてみせる。

「いや…すまぬな、なんでもない」

 読み解けぬ予知。

 戸惑いを振り払うかのように、ソロンは頭をひとつ振り、サーレントに目を向ける。

「サーレントとやら、顔をよく見せておくれ」

 サーレントは、ソロンの顔をじっと見つめた。幼いながらも、知性と探求心の芽が見てとれる。ソロンがふっと表情をやわらげると、サーレントはにっこりと微笑んだ。

「年は? いくつになるのかの?」

 サーレントは無言のまま、両手を付き出す。立てられた指は六本。

「どうした?」

 先刻からサーレントが一言も口をきいていないことに、ソロンは気付く。サピアが慌てたように口をはさんだ。

「ずっと、この調子で…口をきこうとしないのです」

「口がきけぬと?」

「いえ…名前は教えてくれたのですが…どうやら、口をききたくないようなのです」

「むう…?」

 解せぬというように、ソロンは首をひねる。なにか理由があるのだろうか…。

 サピアとソロンの会話はサーレントの話からやがて逸れ、互いの近況や世界の情勢についての話に移っていく。サーレントは途中までおとなしく聞いていたが、やがて退屈なのかしきりにきょろきょろとしはじめ、隅にある大きな壺に目を止めた。どうもその壺が気になってしかたがないらしい。そわそわしていたのも束の間、音を立てないようにそっと駆けより、覗き込んでいる。

 その様子に、サピアもソロンも、話をやめて笑い出してしまった。

「それは魔人の壺じゃ」

 ソロンの言葉に、サーレントはこわごわ覗き込む。いかにも好奇心旺盛なその姿は、見ていて微笑ましいものがあった。壺の中でなにかが動いたのに気付き、サーレントはびくっと後じさる。

「魔人はふつう、壺から出ると山ほども大きくなるが、そやつは気が弱くての。どんどん縮んでしまうから、あまりいじめんでやってくれ」

 サーレントはきょとんとしてソロンを見る。が、やがてこくりとうなずき、壺から離れた。

「なかなか優しい心根の子のようだの」

「ええ」

 ソロン達の会話をよそに、サーレントは次なる好奇心の標的を定めていた。壺の隣の本だな、古びた書物の中に、ひときわ豪華な装丁の書物がある。装丁にひかれたのか、サーレントはそれを取り出して眺めはじめた。指でたどりつつゆっくり読んでいるところを見ると、難しい字はまだ読めないらしいことがわかる。

「面白いかい? それは、言霊の入門書だよ」

 サピアの言葉に、サーレントは顔を上げる。

「言霊って知ってる?」

 首をかしげるサーレントに、サピアが説明する。

「あらゆる言葉の音節に宿る精霊の力を使って様々な現象を引き起こすことだよ」

 サーレントの反応がない。どうやら難しすぎて、なんのことだかわからなかったようだ。

「サピア…子どもにものを教えるのには向いておらんようじゃな」

 ソロンが苦笑する。

「す、すみません。村に戻った頃は、子どもに読み書きを教えることもありましたが、最近は子どもが少なくなりまして、その…」

 慌てて言訳してみせるサピアにかわって、今度はソロンが説明してやる。

「言葉は力を持っておる。火をあらわす言葉<イグ>には火の力、水をあらわす言葉<アク>には水の力がな」

 そこでいったん言葉を切り、サーレントの反応を見る。サーレントがうなずくのを待って、ソロンは続けた。

「この力を引き出すと、いろいろなことができるようになる…それが、言霊じゃよ」

「つまり、ある言葉を唱えれば、その言葉のもつ力が出てくるんだ」

 サピアが言い添える。

 サーレントはおとなしく聞いていた。が、話を聞くうちに彼の瞳が次第にかげりを帯びていくことに、ソロンは気付いた。サーレントは目を伏せ、ぱたん、と本を閉じる。が、その様子を注視していたソロンと目が合うと、笑顔を見せた。

 寂しげな笑顔を。

 

 サピアとサーレントが帰途についてから、ソロンはじっともの思いにふける。

 先刻、サーレントを初めて見た時に浮かんだビジョン…あれは、なんだったのだろう。口をきかないほかは、普通の少年だ。賢そうな表情は、口さえきければすぐれた言霊師になりそうな素質を垣間見せる。だが、それだけだ。特別なことがあるわけではない。

 ともあれ、予知の意味が多少なりともわかるまで、このことは口外せずにおこうと、ソロンは決めていた。何年後になるかわからぬが、いつかその日が来ることを、ソロンは感じ取っていた。

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