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4 血の実験室

 翌日、月曜日の放課後。
 黎明館高校から隣接する大学に入る通用門を通って、圭一郎と征二郎は大学の構内に足を踏み入れた。正門から遠いせいか、人気はほとんどない。
「経済学部の研究棟……ここだ」
 圭一郎は案内図の一点を指さす。
 木島の研究室の場所は流から聞き出した。本の礼を言いたいと説明すると、流は簡単に納得して教えてくれた。
「こっちだな」
 征二郎がさっさと歩き出す。圭一郎もすぐ後に続いた。
「結構建物が多いんだな」
 圭一郎がつぶやく。高校生の二人は、大学の中を歩く機会があまりない。通り過ぎることはないわけではないが、今回のように建物の中に入るのは初めてだ。
「わ、あんなの使われてるのか?」
 道端の建物を征二郎が指さした。古い木造の小さな二階建てで、外壁はところどころ朽ちている。ガラス越しに見える内部は暗く、人がいる様子はない。
「どう見ても使われてないだろ」
 圭一郎は立ち止まりもせずそう答える。彼にとってはこれからどう行動するかの方が問題だった。
 木島の研究室に行き、自分たちを妖魔が狙った事件の真相を聞き出す。
 尋ねてすぐに答えてくれるとは思えないが、なんとか手掛かりをつかまなければならない。
 そのために、どう切り出すか。
「あそこみたいだ」
 征二郎が正面に見える高い建物を指す。建物は真新しく、入るとすぐのところにエレベータがあった。
「木島研究室は一四〇五……十四階みたいだ」
 圭一郎がメモを取り出して確認し、エレベータのボタンに触れかけたところで、はっと振り返った。
 妖魔の気配。
 大学内、それもすぐ近くだ。
「妖魔が近くにいる。行くぞ!」
 小走りに駆け出す。すぐに征二郎が追ってきているのがわかった。
 いつものように現場に直行し、いつものように退治すればいい。
 だが。
(なんなんだ? これは……)
 妖魔の気配は、これまでに感じたことがないほど強いものだった。
 妖魔が放つ気配とは、存在の確かさのようなものだと、圭一郎は思っている。彼の感覚では、気配の強い妖魔ほどはっきりした形を持っている。だから、気配の強さは必ずしもその妖魔の危険さを表してはいない。危険かどうかは、実際に目にしなければわからないのだ。
 だが、これほどまでに強い気配は、なにか不安を起こさせる。
 それに、もうひとつの懸念。
 沙耶の報告によって浮かんだ、人が妖魔になるのかも知れないという仮説を、圭一郎は忘れてはいない。
 あくまで仮説の一つにすぎないとはいえ、妖魔を目の前にして、これまでのようにためらいなく退治することができるのだろうか。
 圭一郎にはわからない。だが、退魔師としてここで立ち止まってはならない気がした。
 来た道を逆に走っていくと、ほどなく先ほどの古い建物の前に出た。妖魔の気配は、その中から感じられる。
「お、おい、あれ……!」
 征二郎が叫び、建物の開いた扉を指さす。
 扉のすぐ外の地面には、鮮紅色の染みが広がっていた。
 圭一郎は息を呑み、立ちすくむ。
 血。それも大量の真新しい血だ。
 それがなにを意味しているのかは理解している。
 だからこそ、動けなかった。
「なにやってんだよ、ほら!」
 ぐいと腕をつかまれる。征二郎だ。
「早く剣にしろよ、中にまだいるんだろ?」
「!」
 圭一郎は思わず反射的に、宝珠を持った手を上げた。手の中の輝きが剣となるまで、数秒とかからない。
 征二郎は剣のつかを右手で握り、鞘を圭一郎の手に残したまま抜き放つ。そのまま駆けて行く弟の後ろ姿を見て、圭一郎ははっと我に返った。
 思わず剣を渡してしまったが、中に潜んでいるのはだれかの血を大量に流した、危険な妖魔だ。下手をすれば、征二郎が危ない。
 征二郎は建物にまっすぐ向かっていた。扉の前の血だまりを飛び越えるつもりなのか、走りながら踏み切る体勢を取る。
 建物の中に潜むものが、ざわりと動いた。
「正面! よけろっ!」
 考えるよりも先に、圭一郎は叫ぶ。
 踏み切る最後の瞬間、征二郎は横に跳んだ。ほぼ同時に、建物の入口から見える闇の中から、なにか長いものが飛び出し、征二郎の足をかすめる。
「っ!」
 圭一郎が息を呑んだその前で、征二郎は着地して路上を一回転した。剣を持ったまま素早く立ち上がる。
「征二郎、怪我は?」
「たいしたことない」
 征二郎の左膝のあたり、制服のズボンに、鋭いもので切り裂かれたあとがあった。うっすらと血がにじんでいるが、どうやらかすっただけで済んだようだ。
「今のはなんだったんだ?」
「動物の腕みたい。爪が鋭くて」
 圭一郎の目には、闇の中から征二郎を狙ったものがはっきりと見えていた。
 巨大な黒い獣の腕。
 建物の中の妖魔がどれほど巨大なのかはわからないが、腕だけを伸ばし、入ろうとする者を狙うようだ。
 征二郎が避けなければ、入口にもうひとつ血だまりができていたかもしれない――そう考えると、背筋がすうっと冷たくなるのがわかる。
 もとは人だったかもしれない、などということは、もはや彼の頭にはなかった。目の前で血が流されている。止められるのは自分たちだけだ。
 ならば、すべきことは一つだ。
「中は?」
「気配はしてる。すごく強いけど、さっきからほとんど動いてないな」
「移動しないタイプとか?」
「だったらいいけど……」 
 圭一郎は気配に意識を集中した。タイプはわからないが、血の跡と爪の動きから見て、恐らくこれまでに遭遇したことのある妖魔のうちで、最も危険なものだ。建物の中にいるうちはよいが、ひとたび出てきたらどんな惨事になるか、想像もつかない。
 だからこそ、二人がなんとしてでも退治しなければならないのだ。

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