小雪がちらちらと舞う、風の強い日だった。
金色の髪の剣士が一人、定期船の甲板から近づきつつある港を眺めていた。レーギス大陸北部の冬らしく、どんよりと低く垂れ込めた雲の下に、新旧入り交じる石づくりの建物群が広がっている。海鳥が舞い、港の男達がロープを手に船の到着を待っているのがはっきりと見えてくる。
剣士──ランディ・フィルクス・エ・ノルージにとっては、ほぼ2年ぶりのケレスの光景だった。
「相変わらず、か」
無表情に彼はつぶやく。ただでさえ低いつぶやきは、口の端に乗せられるはしから吹きすさぶ風に散らされ、誰にも届くことはなかった。
「ガイドを辞めた?」
中心街のガイドの紹介所で、ランディは聞き返す。
「ああ。最近はなんだか図書館でバイトしてるみたいだぜ」
紹介所のカウンターに座っているのはジェレミー・カッツ。盗賊団「アルバトロス」が解散して以来、ガイドの斡旋業を営み、自らもガイドを勤めている。
「図書館? そりゃなんでまた」
「さあな。まあ元気そうだし、ここにもよく顔は出すんだが……会うならそっちに行った方が早いよ」
「わかった。邪魔したな」
ランディはうなずく。ガイドを辞めているとは意外だったが、この町にいるのなら問題はない。問題はむしろ、どうやってこれから向かう地につき合わせるかということだが、口実はいくらでもある。なにしろ馬鹿がつくほど世話好きなお人好しなのだから。
(必要なのはもう一人の方だが、あそこでは出て来ざるを得ないはずだ)
それこそが今回の目的なのだから。
ランディは肌寒さを感じつつ石畳の通りを歩いていく。
図書館は新市街の外れにあった。既に閉館時刻は過ぎており、薄暗くなりかけた裏口から職員達が帰宅の途についているのが見える。
(遅かったか?)
舌打ちしながらそちらに目をやった時、見覚えのある人影が目に入った。
闇色の髪の青年。少し髪が伸びたらしく、後ろで一つに束ねている。裏口付近で職員の一人と二言三言、言葉を交わし、バッグを肩にひっかけるようにして無造作に持ち、こちらに向かって歩いて来た。
ランディはちょうど、彼の正面に立つ形になる。相手もランディの存在に気づいたらしく、そのまままっすぐランディの前にやって来る。
「よう、久しぶり」
陽気な声で先に挨拶したのは、相手の方だった。手を軽く上げ、屈託のない笑みを浮かべている。上げた右手の小指で、銀色の指輪がきらめいた。
が。
ランディは目を細め、会いに来たはずの相手をじっと見つめる。
「……おまえは誰だ」
それがランディの第一声だった。
「何ボケてるんだよ。ディングだってば」
「俺の知っているディングは、もっと間抜けた無防備な顔だったな」
「ひでえなあ。なんだよそれ」
相手は笑い出す。
「ついでに言えば、もう一人同じ顔の奴も知っていたが、そいつは逆に陰気でピリピリしていた」
「うわ、追い打ち」
大げさに頭を抱えて見せる。この反応、この仕草は、どう見てもランディの知っているディングのものではないし、ディングのもう一つの人格、ガルトのものでもなかった。
今ランディの目の前にいる彼は、分かたれた人格のどちらでもない、だが、どちらのようでもある。ディングの陽気さとガルトの隙のなさが、彼には同居していた。
ひとしきりおどけて笑ってから、彼は低い声で言う。その口調が、彼が見た目通りの屈託のない人間ではないということを示していた。
「……相変わらず鋭いな。お察しの通りだよ」
「統合したか」
「そういうこと」
「……なんと呼べばいい?」
「どっちでもいいぜ。ディングでもガルトでも。一応ここではディングのままで通してはいるけどさ」
「本名は?」
「ガルト・ラディルン」
フルネームを聞いたのは初めてだ。
「なら、ガルトと呼ばせてもらおう」
まさか、二つに分かれていた人格が一つになっているとは。
正直言って予想外の出来事だった。だが、今回はむしろ好都合かも知れない。
一呼吸おいて、ランディは続けた。
「ガルト、おまえに用があってここに来た。手を貸してほしい」
「リュテラシオン?」
ランディが滞在している新市街の宿の一室。
ランディの口から発せられた地名を、ガルトが聞き返す。わずかにひそめられた眉は、彼がその地について何かあまり愉快とはいえない知識を持っていることをうかがわせた。
「知ってるか?」
「覆面商人の……出身を隠したヘスクイル島の商船の寄港地なんだ。教団の暗殺者が島に帰る時にも使ってた」
「そうか、やはりな」
ランディはうなずく。必要としていたのは、ダーク・ヘヴンの暗殺者がリュテラシオンをうろついているらしいという噂の裏付けだ。元暗殺者のガルトにならばわかるだろうし、人々に紛れ込んだ暗殺者から身を守る術も心得ているだろう。
「……リュテラシオンの郊外に、『宝石王の館』と呼ばれる屋敷がある。かなり前に死んだ宝石のコレクターのものだが、死霊が巣くって誰一人入れないそうだ」
「宝玉か」
「そういうことになるな。あれからあちこち行ってみたが、ろくな宝玉がない」
苦い顔で吐き捨てるように、ランディは言う。そこそこの強さの宝玉であればすぐに見つかる。だが、ランディが求めているのは、秘術によって人から作り出された宝玉に抗しうるだけの力を持ったものだ。一族を惨殺した兄、レスターを倒し、生きながら宝玉に変えられた婚約者のミルカを苦しみから救うには、それだけの宝玉がどうしても必要なのだ。
求める宝玉があまりに見つからないことに、ランディは苛立っていた。ダーク・ヘヴンの暗殺者がうろつく地の、死霊によって閉ざされた館に手を出すのも、彼の余裕のなさの現れと言える。
「だがリュテラシオンには、ダーク・ヘヴンがらみの噂が多い。『宝石王の館』を狙っていた冒険者が立て続けに変死したという話もある。おまえならそいつらに目をつけられずに済む方法がわかると思ってな」
「まあね」
持ち込んだ蒸留酒を杯に注ぎながら、ガルトは答える。かなり強い酒ではあるが、顔色一つ変わっていない。
「要するに宝玉が狙いで、その時に教団の暗殺者に目をつけられないようにしたい、ってことでいい?」
「そうだ。頼めないだろうか」
教団に追われている、と、かつて言っていた。だとすれば教団とのつながりが深いリュテラシオンを訪れることは、彼にとって望ましくない事態であるかも知れない。
ガルトは口の端をわずかにゆがめた。
「……なんだか、らしくねえなあ」
「なんだ?」
「なんか口実つくって連れていって、なりゆき上協力せざるを得ないようにする方が、あんたらしいと思ってさ」
「ディングが相手ならな。だが今のおまえに通用するとは思えん」
人格が統合する前であれば、人の好いディングを言葉巧みに連れ出すつもりだったということだ。ガルトに差し出された酒の杯を受け取りつつ、平然とランディはそう言ってのける。
ガルトはランディにとって、利用価値のある対象だ。死霊を狩る上でダーク・ヘヴンの情報は貴重だし、彼の「力」にも関心がある。詳細は知らないが、秘術の生贄として宝玉に変えるに足る魔力を秘めているのはわかる。満足のいく宝玉が見つからなければ使わざるを得ない、最後の手段ではあるが。
だが二年ぶりの彼は、容易には侮れない相手となっていた。人格が統合されたせいか、明朗さの裏にしなやかな鋭さを隠し持つ油断のならない雰囲気に仕上がっている。再会して間もないが、迂闊に振る舞えばこちらが返り討ちに遭いそうな危機感すら、ランディの剣士としての鋭敏な感覚は感じ取っていた。いつになく下手に出ているのはそのためである。
ガルトにしても、ランディに全幅の信頼など寄せてはいないだろう。利害が一致する限りでは当面の信用はできるが、隙を見せてはならないし、好意やら友情やらに期待する仲でもない。
互いにそれがわかっているからこそ、取り繕いは無用だ。
とはいえ、ガルトが承諾するかどうか、ランディには今一つ読めない。場所が場所だけに、拒否される可能性も大きい。
「無理にとは言わんが……」
ランディはそこで言葉を切り、酒を喉に流し込んだ。喉を灼く酒の強さを感じつつ、ガルトにとって魅力的な条件を探して頭を巡らせようとする。
が。
「わかった」
いともあっさりとガルトは答える。
「いいのか?」
「俺も教団の動向を調べておきたいからさ。ちょうどいいや」
「そうか」
言いながら、利害が一致したことにほっとする。
「ただ、少し待ってくれない? 仕事が一段落するまで」
「構わんが……おまえ、図書館なんかで何やってるんだ?」
「魔術書の翻訳。新しい魔法を覚えるついでにね」
ガルトによれば、ダーク・ヘヴンに伝わる魔法は伝承のための特別な言語で書かれており、図書館にあった本は誰も読める者がいないために放置されてきた。島に伝わっていない魔法を探して読んでいたところ、図書館の研究員に翻訳の仕事を持ちかけられたという。
「暗殺者でガイドで研究員……芸達者だな」
「魔術師なだけだよ」
ガルトは軽く笑って見せる。こうして酒を酌みかわしつつ話すのは初めてだったことに、ランディは気づいた。