リュテラシオンは大陸北部の沿岸に位置する中規模の都市である。ケレスと同様、レーギス帝国に属するが、エテルナ公国に隣接しており、ケレスからは船で三日を要する。町の南東部では山が海岸近くにまで迫っているため、ケレスから陸路を使うと大幅に迂回しなければならない。
ランディとガルトがリュテラシオンの港に降り立ったのは、二人が再会してから半月ほど後、大陸暦933年も暮れようかという時期だった。冬の風が時折強く吹き、雲の流れが早い。天気がこれ以上荒れる前に上陸できたことは幸運だった。
「どうだ?」
埠頭から市街に向けてゆっくりと歩きながら、ランディは尋ねた。ランディには通行人とダーク・ヘヴンの暗殺者の区別がつかない。
「このあたりには見当たらないけど……北港に船が来てたな」
「奴らの?」
「いや……商船の方」
答えながらガルトは、風に飛ばされそうになった帽子を押さえる。ふだんはかぶらない帽子をかぶっているのは、島の出身者の目をごまかすためだ。
「どうしてわかる?」
「俺が乗ってきた船だった」
ガルトの声は、明らかな苦笑を含んでいた。嫌な偶然、といったところだろうか。
島から逃げるには、商人になりすまして商船に乗るしかない。ガルトもかつて、そうやってリュテラシオンに来たのだという。
「まあ、少し歩いただけじゃわからないだろ。あとで調べてみるよ」
「ああ」
「それで、館の方はどうするんだ?」
「そうだな」
ランディは空を見上げる。まだ昼前ではあるが、海の方から低く黒い雲に覆われつつあった。
「雨にならないうちに、一度見ておこう」
「間に合うかな」
「さあな」
リュテラシオンでは真冬でも雪はほとんど降らないが、冬の雨はやはり冷たく、時には雷を伴う嵐になることがある。迫り来る黒雲が嵐のものなのかはわからないが、雨になることはほぼ確実だった。
だが、ランディは雨だからといって予定を変更するつもりはない。館の様子を確認し、宝玉を手に入れる算段を整えるのが、何よりも優先すべき事柄だった。
館はリュテラシオン南東の山の中腹に張り出した崖の上に、町を一望できるように建てられている。山を登って館に近づくのは、館を狙っていた冒険者が変死したという噂を考えれば危険であるが、麓の森を抜けて真下から見上げる形であればさほど時間もかからず、人目にもつきにくい。
「死霊が巣くって誰も入れない……って、どういうことなわけ?」
森の小道に足を踏み入れて間もなく、ガルトが尋ねた。森は散策路として整備されているが、冬のこの時期にはさすがに人影はない。
「扉は開かないし、壊そうとしても壊れない。強力な守りが働いているようだが、その源と思われる死霊の気配はいっこうに弱まらず、次第に強くなってきている……そんなところだ」
「死霊を浄化すれば片づくこと?」
「おそらくは」
ランディの足取りには迷いがない。事前に経路は入念に調べてあったし、妖魔や獣の類が襲って来れば魔剣で切り捨てるまでだ。
ほどなく、目の前に絶壁が立ちはだかる。見上げるとはるか上に、館らしきものが建っているのが見えた。
「これは……」
にらみつけるように館の方を見上げ、ランディはつぶやく。
「聞きしにまさる、か」
遠雷が響く中、暗雲を背景に立つ館からは、距離を隔ててなお死霊の気配が感じられる。館そのものが死霊であるかのように濃密な気。これまで誰も手がつけられなかっただけのことはあった。
「封じられそう?」
「難しいな」
ガルトの問いに、館をにらんだまま答える。自分の手に負える強さを遙かに越えているのが、麓からでもわかる。だが、せっかくの獲物を諦めるのは惜しい。
何か方法はないものだろうか。
思案にふけるランディをしばらく眺めていたガルトが、おもむろに口を開いた。
「俺が浄化しようか?」
「なんだって?」
思わずランディは聞き返す。あの死霊を浄化できるというのだろうか。
ガルトはにやりと笑ってみせる。
「できもしないことを安請け合いする趣味はねえよ」
「しかし……」
にわかには信じがたい。
「なんなら、今やろうか?」
「ずいぶん簡単そうに言うんだな」
半ば呆れて、つぶやくようにランディは言う。以前彼が変わった魔法を使って死霊を浄化しているのを見たことはあるが、そこまで強力な魔法には見えなかった。
だが本当に浄化できるというのなら、願ってもないことである。
「あてにしていいんだな?」
「もちろん」
「ならば頼む……ああ、今じゃない。ダーク・ヘヴンの奴らのことも気になるし、一度出直そう」
再び散策路に足を踏み入れる。遠くで鳴っていた雷が次第に近づいていることに気づき、二人は足を早めた。
雨が降り出したのは、二人がまだ森の中を歩いている時だった。大粒の雨が激しく地面を打ち、雷鳴がとどろく。散策者のために設けられた休憩小屋に飛び込んで、なんとか雨をしのぐ。小屋はしっかりとしたつくりで、濡れる心配はないが、雨が止むまでは動けそうにない。
「間に合わなかったな」
炉に火を起こし、濡れた服を乾かしながら、ガルトが苦笑する。
ランディは無言で剣の手入れをしていたが、ふと、その手を止めた。
「……声がする」
「えっ?」
ガルトは怪訝な顔をしたが、すぐにランディが耳にした声に気づいたようだった。
小屋のすぐ外、雨音にかき消されて聞き取れないが、男の声が聞こえる。続いて、扉を叩く音。
二人は顔を見合わせる。
「こんなところに何の用だ」
「なあ、助けてって言ってないか?」
ガルトの言う通り、扉の外の男は助けを求めているようだった。次第に激しくなってきた扉を叩く音に混じって「助けてくれ」「お願いだ」といった懇願の声が切れ切れに聞こえる。
「おい」
立ち上がって扉に向かうガルトを、ランディは呼び止めた。
「どうするつもりだ」
「こういう場合、戸を開けてやってもいいと思うけど?」
「……」
よけいなことにかかわる気はなかったが、ガルトが既に扉に手をかけているので仕方なくなりゆきを見守ることにする。手入れの途中だった剣を鞘におさめ、だが、用心深く手から放さない。
ガルトが扉を開けた瞬間、激しい光と地面を揺るがす音とともに、男が一人転がり込んできた。ちょうどすぐ近くに雷が落ちたのだろう。男は床に転がってうずくまったまま、がたがたと震えて切れ切れになにやらつぶやいている。
ランディは男を一瞥し、閉められた扉に目をやる。
「近くに落ちたな」
そう、興味なさそうにつぶやいた。ガルトのお節介ともいえる行動につき合う気はない。
「おっさん、落ち着けよ。どうしたんだ?」
ガルトが男の肩を叩き、なだめようとするが、男はどうしたわけか恐怖にすっかり取り乱していた。
尋常ではない怯えようである。
「助けてくれ……追いかけて来るんだ……」
「何が?」
尋ねても男は尋ねられたことに気づいていないようだった。歯の根も合わぬほどに震えながら頭を抱えて丸くちぢこまる。
「大丈夫だと……のに、どうしてここに……奴らが」
「ここなら安心だよ。何があったか教えてくれないか?」
ゆっくり言い聞かせるようにガルトが言う。男は相変わらず震えていたが、当面は安全なところらしいと理解できたらしく、抱えていた手を頭から放した。
「どうして追いかけられてるんだ?」
「逃げてきたんだ……船で……」
「どこから?」
「……」
不意に。
男の口から発せられた音を聞いた瞬間、ガルトの表情が変わった。普段の快活な表情から、厳しく鋭いまなざしへ。目元のはっきりした顔立ちのせいか、それだけで別人のように雰囲気が変わる。
刃物のように鋭い目を、ガルトは扉に向けた。
「ガルト?」
「ランディ」
ガルトは立ち上がる。
「この人を頼む」
「何があった?」
ガルトは答えず、扉を開け放つ。雨で白く煙る森の中に、何か動くものが見えた。ゆっくりとこちらに近づいてくるものを見て、ランディは思わず声を上げそうになる。
それは、人の形をしていた。剣らしき棒状のものを手に、まっすぐ小屋を目指して歩いてくる。だが、ふらふらとした歩き方と不自然にねじれまがった首は、それが生きた人間ではないことを証明していた。
「あれは?」
「屍鬼。たぶん暗殺者のなれの果てだ」
思わず戸口に駆け寄ったランディに、短くガルトは答える。刃物の目をまっすぐに、死してなお動くその身体に向けたままだった。
「……」
ランディは剣の柄に手をかける。何が起きているのか完全に理解したわけではないが、迫って来るものが屍鬼であれば、魔剣で倒せばよい。
が。
「悪い、ここは俺に任せてくれ」
低く鋭い調子のガルトの言葉に、ランディは一瞬たじろいだ。
その時。
「う、うわぁぁぁぁぁっ!」
男が絶叫する。
「お、お許し下さい! どうか……ウドゥルグ様!」
(ウドゥルグ?)
ダーク・ヘヴンの破壊神の名。
(そうか!)
ダーク・ヘヴンから逃亡してきた男がリュテラシオンで暗殺者に見つかり、追われてここまで逃げてきた。そう考えれば、男のおびえようもガルトのただならぬ様子も、そしてやって来た屍鬼も説明がつく。
戸口から一歩踏み出しかけたガルトの背中がぴくりと動いた。が、振り向くことなくそのまま屍鬼に向かう。
(一体何を?)
戸口に留まり、ランディはガルトの様子を見守る。
叩きつけるように降る雨の中を、ガルトはまっすぐに屍鬼の方に向けて歩みを進める。屍鬼は正面からやって来るガルトに気づき、剣を構えようとする。
「……っ!」
突然背後から衝撃を受けて、ランディはよろめいた。男がランディを突き飛ばすように戸口から走り出て、そのまま屍鬼から逃げるように森の奥へと駆けて行く。迫る屍鬼の恐怖に耐えきれなかったのだろうか。
ランディは男を止めようとも追おうともせず、屍鬼とガルトの方に再び視線を向ける。
ガルトは立ち止まり、十歩ほどの距離を隔てて屍鬼と向かい合っていた。彼の背中ごしに、屍鬼が構えかけた剣を下ろすのが見える。手の動きから、どこか戸惑っている様子がわかる。
剣をだらりと下ろしたまま、屍鬼はガルトの方を見つめている……実際には、ねじ曲がった首がどこを向いているのか判断できなかったし、激しく雨の降りしきる中でのできごとだったので、正確にはわからないが、そのように感じられた。
ガルトはじっと立ったまま、背中をこちらに向けている。
ややあって。
屍鬼がぐらりとくずおれた。全身からすべての力が抜けたかのようにどさりと倒れ、そのまま動かなくなる。
ガルトはしばらく、倒れた屍鬼に目を落としていたが、やがて戻って来た。
冷たい冬の雨に打たれていることに気づいていないかのような、うつろな歩き方だった。
「……済んだよ」
抑揚のない声で、ぽつりと言う。
だが。
「あいつ、逃げたぜ」
ランディがそう言うと、ガルトははっと顔を上げた。
「どっちに?」
「追いかける気か? やめておけ」
「そうはいかないだろ?」
再び雨降りしきる森へ足を踏み出しかけたガルトの肩を、ランディはぐいとつかみ、引き戻す。
「馬鹿かおまえは。追いかけてなにができるっていうんだ」
「……」
ガルトの顔に、ひどくやりきれない表情が浮かぶ。その表情を見ながら、ランディは続けた。
「ウドゥルグってのは、死者を支配するんだろう? だったらあいつは破壊神を忘れない限り、死ぬまでその影におびえ続ける。そんな奴にしてやれることがあるか?」
男は、屍鬼の姿を見てウドゥルグに許しを乞うていた。逃亡したことで死後の世界を統べる破壊神の怒りを買ったと思っていたのだとすれば、彼は死ぬ瞬間まで破壊神の怒りを恐れ続けるだろう。だが、それを他人が解いてやることなど、到底できない相談なのだ。破壊神自らが出現して許しを与えでもしない限りは。
「……そうだな」
ゆっくりと自分に言い聞かせるように、ガルトはつぶやき、素直に小屋へと戻る。無言で服を着替え、冷え切った身体を暖めるガルトの姿にちらりと目をやり、ランディは再び剣の手入れを始めた。
ダーク・ヘヴンからの逃亡者と追っ手にたまたま出くわした。ランディにとってはそれだけのことである。だが、この一連の出来事は、ガルトにとっては何らかの意味をもっていたように、ランディには思えた。
単に同郷の男を救えなかったというだけではない。むしろ屍鬼に対峙した際の、彼のただならぬ表情が気にかかる。まるで追っ手が屍鬼となって迫って来ていることが扉越しに見えていたかのような、あの、鋭いまなざし。そして戻って来た時の、どこかうつろな様子。
深く関わるつもりはない。だが、どこか気になるできごとではあった。
夕方には雨はあがり、二人は市街の宿に向かう。途中、森の入口にある広場で、落雷を受けたとおぼしき大木があった。太い幹は二つに裂け、一方は折れて地面につき立っている。
「さっきの追っ手、たぶんここにいたんだ」
ガルトの言葉に、ランディは足を止めた。確かに落雷を受け、さらに折れた木の直撃を受けたとすれば、あのような姿になっても不自然ではない。
「なぜわかる?」
「近寄った時に首飾りをしてるのが見えたんだけど、屍鬼化の魔法がそこから発動したばかりの気配があった。たぶん、支給される呪具に、死ぬと発動する仕掛けがあったんだと思う」
ランディは言葉を失う。
いつどこで死んでも、屍鬼として動き続ける暗殺者。任務をまっとうするために考えられた仕掛けなのだろうか。
「ダーク・ヘヴンではそんなことをするのか?」
「俺がいた頃は、そんなことはなかった。けど……」
ガルトは言葉を切った。
「哀れなものだな。死んでも働かされるとは」
ランディはそう言い捨てて歩き出した。過ぎたことにも死んだ者にも興味はないし、屍鬼と化してなお任務を続けていた暗殺者の姿は、思い出すだけで不快な気分になる。
「……まったくだ」
すぐ後ろで、ガルトのそんな低いつぶやきが聞こえてきた。
やめてくれ。
その名を呼ぶな。
夜更けの宿屋で、ガルトは一人まんじりともせず、夜の闇を見つめていた。
昼間のできごとが、どうしても頭から離れない。
雨の森に足を踏み出した時、彼にはウドゥルグを呼ぶ二つの声が聞こえていた。
一つは背後で逃亡者の男があげた、ウドゥルグに許しを乞う叫び。
もう一つは目の前で、屍鬼と化した暗殺者から放たれる、助けを求める声。
──死にたくない……助けて、ウドゥルグ様。
死の瞬間の恐怖にとらわれたまま、もはや声を発することもできなくなった身体で、屍鬼は助けを求めていた。死を統べる破壊の神の復活に尽力した者は、来たるべき世界で死を超越する。そんな教団の教えを疑うことなく信じ、死してなおすがり続けていたのだろう。
教団の創り上げた、幻想の神に。
そのさまは見ていてあまりに痛ましく思えた。おそらくは多くの人々に死をもたらしてきたであろう暗殺者の不運な末路とはいえ、どうしても放ってはおけなかったのだ。
だから彼は近づいて額の目を開き、破壊神としてねぎらいと休息の命令を与えた。屍鬼がほっとした表情を浮かべるのを待って、本来あるべき永遠の休息へと導いてやった。
欺瞞だということはわかっている。死界などありはしないのだから、最期の一瞬に与える安心など、何にもならない。まして虚構の神を演じてやる義理も必要もない。
だが他にどうすればよかったのか、彼にはわからない。
それほどに、助けを求める声は悲痛だった。
一方、その間に逃亡者の男は逃げて行ってしまった。かろうじて追っ手から逃れられたとはいえ、逃亡という裏切りをいつか──ことによれば死後──罰せられることにおびえて、これから生きていくのだろうか。
ランディの言うように、彼にしてやれることはない。破壊神の罰を恐れる必要のないことを信じさせるには、あまりに恐怖が深く根付いてしまっている。
破壊神など存在しない。それは「ウドゥルグ」のシンボルの力を持つガルトが一番よく知っている。だが一方で、存在しないものへの強固な信仰が、実際に人々を縛り付けているのだ。それが続く限り、島は教団の圧政に支配され、無意味な生贄と殺戮が繰り返される。
しかも教団の、少なくとも一部は、破壊神が虚構のものだと知った上で支配を行っている。それはガルトにとって、何よりも許しがたいことだった。
だが、どうすれば人々を信仰から解き放てるというのだろう。
ウドゥルグを呼ぶ二つの声は、ずっとガルトが抱いていた問いをあらためてつきつけるものだった。それだけにずしりと重く心に突き刺さったままである。浮かない表情は、だが、闇に隠されて見えない。
ふと思い立ったように、ガルトは音を立てずに起きあがった。窓を細めに開けてから、右手の小指にはめられていた、蛇を意匠した指輪を外し、手のひらに乗せる。指輪が淡い光を放ち、小さな銀の蛇の姿になった。かつて地下遺跡で手に入れた、破壊神の使い魔。同じ信仰の中で結び合わされてきた半身ともいうべき存在を、彼は普段指輪として身につけている。
(イーシュ、リュテラシオンの教団を探ってきてくれ)
声には出さない。だが、蛇はするりと身をくねらせて宙に浮き、窓から市街の一角に向けて滑るように飛んで行く。その行方を見送るかのように、ガルトはいつまでも窓の外の闇を見つめていた。