そして、授業開始から三十分ほど経過した頃。
「……ばかな!」
突然、圭一郎が鋭い調子でつぶやく。
「どうした?」
「もう出た!」
今までに二年A組で出現したのはいずれも授業終了直前だった。これまでと比べて明らかに早くに出現している。
征二郎ははっと思い出す。
授業の始まりとともに教室を出ていった、滝護宏の言葉。
――先週より早くに出るだろう。
(わかってたってのか?)
妖魔がいつ出現するかなど、圭一郎にもわからないことだ。それなのに。
護宏は何を知っていたのだろう。
「征二郎!」
圭一郎が低く叫ぶ。その手には退魔の剣が握られていた。
「!」
今はあれこれ考えている場合ではない。妖魔を斬る、それだけだ。
征二郎は剣をつかみ、立ち上がる。教室の扉をがらりと開け放つ。
振り返った同級生はいない。見事なまでに全員、机に突っ伏している。唯一起きているのは、授業を進めている安川だった。征二郎の方に視線が動く。
すがるような目は、妖魔に気づいてしまった証拠だろうか。生徒が眠るのに頓着しない安川も、さすがに妖魔しか聞き手のいない状況は耐え難いものがあるらしい。
続けてないとだめなのか?
授業を続けながら、そんな風に目で訴えかけているように見える。
「そのまま話しててくださいっ!」
征二郎はそう叫んで、天井をにらみつけた。黒い影がはっきりと浮き出ている。
(これなら……!)
最後列の空き机に乗り、征二郎は剣を振りかざした。
「せぇいッ!」
かけ声とともに影を斬り裂く。たしかな手応えがあった。
影はしばらく天井にとどまっていたが、征二郎に斬られたところから次第に薄くなり、消えていく。これまでの消え方とは明らかに違っていた。
「やった……!」
征二郎の手の中で、剣がもとの宝珠に戻る。宝珠を握りしめながら、征二郎は消えていく影を見つめていた。
休み時間になると、征二郎の周りに同級生たちが集まってきた。授業中の事件について話したくてうずうずしていた様子が、彼らの表情から見て取れる。
征二郎は得意げに同級生を見渡す。多少の曲折があったとはいえ、クラスの危機を救ったのは自分だ。他の誰にもなしえないことを、彼はやってのけたのである。
「いやあ、びっくりしたよ」
同級生の一人が言う。
「目が覚めたらおまえ、滝の机の上に突っ立ってるんだもんな。なに考えてるんだと思ったよ」
「へ?」
つっこみどころが違う。
考えてみれば、妖魔が消えるまで、起きていた生徒はいなかったのだ。征二郎が妖魔を斬る瞬間は、教師の安原を除いて誰一人として目撃していなかったことになる。彼らが見たのは、退治が済んだ後の征二郎だ。授業中に突然奇行に及んだと思われていても不思議ではない。
「……だから、妖魔を退治してたんだってば」
「そうみたいだぜ。先週から安原の現国の時間に妖魔が出てて、そのせいでみんな眠気がひどかったらしいんだ。んで、征二郎たちが退治しようとしてたんだってさ。いや、俺もよくわかんないけど」
拍子抜けした征二郎の横で、堀井が事情を説明してくれる。むろん親切なのだろうが、受けなかったギャグを説明してもらっているのに似たばつの悪さを征二郎は感じた。
「そんな面白いこと、俺が起きてる時にやってくれよな」
「無理言うなよ……」
気楽な同級生の言葉に、はあ、とため息をつく。 賞賛を浴びるために妖魔を退治しているわけではないが、誰にも気づいてもらえないというのも寂しすぎる。
(こんなことなら、前もって話しておけばよかったなー)
ちょうどその時、護宏が教室に入ってきた。休み時間にちょっと外に出ていただけだとでもいうかのように、さりげなく席につこうとする。
退治が成功したことを、彼には言っておく必要があるだろう。そう征二郎は思った。
「おい」
声をかけると護宏は、自分の席の前に立ったままで征二郎に視線を向ける。
「あれ、片づけたぜ」
「じゃあ、これはおまえの足跡か」
「……」
征二郎は護宏の机の上を見る。くっきりとついた足跡は、どう考えても自分のものだ。
(おまえまでそう来るかー!)
「 わかったよ、拭けばいいんだろ?」
半ばやけになって、手近にあったタオルを手に取る。乱暴に机を拭う征二郎を見ながら、護宏がぼそりと言った。
「席、空けておいてよかったようだな」
「!」
思わず顔を上げ、護宏の顔を凝視した。だが護宏はそれ以上話を続けようとはせず、取り出した本に目を落としている。
「……ちぇっ」
征二郎は追及をあきらめる。だが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「ま、いいか。次からはちゃんと拭いとくよ」
こいつ愛想ないけど、案外いいやつかも。
そんな考えが頭に浮かぶ。
その見通しが正しかったのかどうか、後に彼は何度も悩むことになる。だがそんなことは、この時はまだ知るよしもなかった。
(第二話 終)