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第四話 鈴の退魔師

3 大学への長い道程(上)

 二日後の朝。
「征二郎、早くしろよ」
 今日の授業で使う教科書を鞄に詰め込んでいる征二郎を、圭一郎がせきたてる。
「なんで昨日のうちに入れておかないかなあ?」
「んなこと言ったって、まだ間に合うだろ」
「ギリギリに行くのは嫌なんだってば」
「じゃあ先に行けよな」
「そうしたら、おまえ平気で遅刻するじゃないか」
 そう言いながら圭一郎は、征二郎があらかた詰め終わったのを見て、先に玄関に移動する。二人が当主になり、部活を辞めた征二郎が朝練に出なくなってから、もう毎朝のように同じやり取りが繰り返されていた。
「だからってつき合わなくてもいいのに」
 征二郎が玄関に出ると、圭一郎はちょうど携帯電話を手に取ったところだった。どこかからメールが届いたらしい。
「入江さんだ」
 圭一郎がメールの文面に目を通している間に、征二郎は靴を履く。
「なんて?」
 携帯電話を閉じてしまい込む圭一郎に、征二郎は尋ねた。
「この間の照合の件。ほぼ間違いないみたいだ」
 学校に向けて歩きながら、圭一郎は答える。
「学校に着いたら出現時刻を予測してみる。何かあったら呼びに行くから」
「わかった」
 征二郎は即答した。細かい考え事を圭一郎に任せている分、剣を扱う局面になれば迅速に行動するつもりである。
「頼りにしてるよ」
 圭一郎はそうつぶやき、足を速めた。

 どうにもついていない日、というものは、誰にでもある。
 美鈴凜にとっては、この日がそういう日だったらしい。
「もう、なんで今日に限って……」
 苛々とした足取りで凜は駅の階段を上り、改札口へと向かう。
 今日は黎明館大学の推薦入試の日である。面接だけとはいえ、それなりに人生の正念場だ。
 だが、そんな凜をあざ笑うかのように、既にここまでにいくつもの不運が凜を襲っていた。
 まず、家を出たとたんに通り雨に見舞われた。天気予報では快晴だったので、凜は家に傘を取りに戻ることを余儀なくされた。しかも、傘を持って出てみれば、雨は嘘のように止んでいた。
 さらにやっと駅前に着いた凜は、不意に年老いた女性に呼び止められた。
「すいませんが、中央郵便局はどこでしょうかねえ?」
(なんで私に?)
 急いでいない通行人など、どこにでもいるだろうに。
 そう思いつつ、だが、尋ねられたからには答えないわけにもいかない。幸い郵便局はさほど遠くはない。
「この道をまっすぐ行った左側です」
「……?」
 可能な限り簡潔に、かつわかりやすく説明したはずだった。
 だが、女性は首をかしげたままだ。
「あの……」
「すいませんねえ、わたしゃ耳が遠いもので。まっすぐ行った、右側?」
「左側ですってば」
「ああ、どうもありがとうございます」
 やっとわかってくれたかと思いきや、女性は凜が指し示したのとは逆の方向へと歩き出した。
「ち、違います、こっちをですね……」
「あら、違うんですか」
 らちがあかない。
「お連れします、こっちです!」
 思わず凜は、女性の手を取る。直接連れて行った方が、まだ早い。
 郵便局に女性を送り届けて駅前に戻ってきた時には、既に乗る予定だった電車を数本逃してしまっていた。
 時計を見る。開始時刻まであと一時間三十分。ここから大学へは三十分ほどで行けるはずだ。
(時間に余裕は見てあるし、大丈夫よね)
 自分に言い聞かせるようにつぶやいて改札を通った凜の耳に、アナウンスが飛び込んでくる。
「さきほど発生しました人身事故により、上下線とも運転を見合わせております……」
 またひとつ、不運が重なる。
(バスで行った方がいいかも)
 ふだん利用したことはないが、たしか金剛駅に向かうバスの路線があったはずだ。だが、利用したことのないバスをこんなところで使うのもためらわれる。
(どうしよう)
 凜は「運転見合わせ」の貼り紙を貼っている駅員を見つけ、尋ねる。
「どのくらいで動きますか?」
「それが、まだなんとも……」
 駅員も困った様子だ。恐らくは何度も聞かれているであろう問いに、すまなそうに答える。
「バスで振り替え輸送がありますんで、お急ぎなら北口から乗ってください」
(やっぱりバスしかないか)
 凜は改札を出て北口に向かった。いつ動くかわからない電車を待っていてもしかたがない。少しでも目的地に近づいておく方が安心できるだろう。
 昼前のせいか、バス乗り場はさほど混雑していない。これならすぐに乗れそうだと、凜は一息つく。
 が、バスはなかなかやって来ず、ようやく乗り込んだころには、試験開始まであと一時間になっていた。
 バスは時刻どおりに走れば、金剛駅に二十分で着く。途中、黎明館大学の前を通る路線なので、凜の目的地へは十五分程度で着くはずだ。
 だがこの日のバス通りは、いつになく渋滞していた。
(大丈夫かな)
 車の列を見やって、凜は不安になる。
 よりによってこんな日にこんなに不運が重なるとは。
(ああもう、こんなところで止まらないでよ)
 バスの前で乗用車が停車している。右折するタイミングをはかっているらしい。進路を遮られた形になったバスの中で、凜はじりじりと道路の様子を眺めていた。右折に手間取っている乗用車も、ちょうど黄色に変わった信号機も、向こうで下り始めた踏切の遮断機も、周囲のなにもかもが自分を邪魔しているかのようにさえ感じられる。
 むろん、誰にもそんな意志などないことは凜にもわかっている。この事態は誰のせいでもなく、まして自分のせいでもない。だがそれだけにいっそう、行き場のない焦りが凜を苛立たせた。
 バス停を三つほど過ぎたあたりで時計を見る。
 あと四十五分。
(降りて歩いた方がいいかな)
 ちらりとそんな考えが頭をかすめる。だがここまで不運が重なると、なにか行動を起こせばそれだけ事態が悪化するような気もした。
 が、あと三十五分を切ったところで、凜の忍耐は限界に達する。
「降ります!」
 バス停に停まり、ちょうど開いた扉から降り立った凜は、足早にバス通り沿いに歩き出した。
(急がないと……)
 この場所から大学までどのくらいかかるのか、正確にはわからない。だがなにか行動しないではいられなかったのである。

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