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第五話 妖魔を護る者

1 奇妙な気配(中)

「妖魔だ!」
 圭一郎が突然、緊迫した声を上げた。
「どこに?」
 身構えてあたりを見回すが、妖魔の気配を感じる力を持たない征二郎には、それらしいものは見当たらない。
「近い。急ごう」
 圭一郎は今まさに出ようとしていた正門から、校内へと戻って行く。征二郎もあわてて後を追った。
「学校の中なのかよ?」
「うん。入ってきたみたいだ」
 圭一郎は足を速めながら答える。放課後とはいえ、部活動で学校に残っている生徒は多い。妖魔のタイプによっては被害が広がる恐れがある。
「誰か被害に遭った様子はないか、注意して見ていてくれ」
「あ、ああ」
 征二郎は周囲を見回す。グラウンドでは野球部と陸上部がトレーニングの最中だ。体育館の中から聞こえてくる音は男子バスケットボール部のものだろう。
(もうじき県予選だったっけなあ)
 一カ月ほど前までは、征二郎もあの体育館の中で汗を流していた。当主を継いで部を辞めたことを後悔しているわけではないが、時折あの中でボールを追い回したくなることもある。それに、かつてのチームメイトたちが全国大会の地区予選を――黎明館にしてはきわめて珍しく――勝ち上がっている最中だ。気になるし、できれば応援したい。
「征二郎?」
 体育館の方に顔を向けたままの征二郎に気づいて、圭一郎が足を止める。
「あ、なんでもない」
「……特に変わったことはなさそうだね」
 圭一郎は、征二郎の視線の行方にはあえて触れずに、再び歩き出す。
「妖魔は?」
「少し移動してる。部室の方に来てるのかな」
 二人は校舎の裏手に回り、部室棟の前にさしかかる。だが、騒ぎが起きた形跡はない。
「静かじゃん」
「油断するな。すぐ近くにいるんだ」
 いくぶん拍子抜けした征二郎を、圭一郎はたしなめる。
「あのあたりみたいだ。準備していてくれ」
 言いながら圭一郎は、宝珠を手に握る。彼が見据えている方向は、部室の陰になっていて見づらいが、裏門へ通じる細い道のあたりだった。道を挟んだ向こう側には弓道場の入口が見える。
「おい、あれ……」
 先に気づいたのは征二郎だった。
 テレビで見る祭に出てくるような服装の、小さな姿。弓道場の入口をのぞき込んでいる。
「子ども?」
「……ただの子どもじゃない」
 圭一郎が緊迫した表情で短く答える。
 その時ちょうど裏門の方から、制服姿の男子生徒が歩いて来た。弓らしい長い棒状の包みを持っているところを見ると、どうやら弓道部員のようだ。
 二人が部室の陰から見守る前で、弓道部員は子どものすぐ横を、ほとんどぶつかりそうになりながら、よけもせずすり抜けて、弓道場に入って行く。
 明らかに子どもが視界に入っていたはずなのに、弓道部員が子どもに気づいた様子はなかった。
「高校の中にあんな格好の子どもがいるのに、気にならないのか?」
 征二郎が首をかしげる。
「違う、たぶん見えてないんだ」
「どういうこと?」
「よく見ろよ」
 圭一郎は子どもの足元を指さす。わずかに宙に浮き上がり、地面に触れていないことに気づいた征二郎が、あっと声を上げた。
「あれは……人じゃない」
「妖魔か」
「ああ」
 妖魔が人に似た形を取ることは珍しくはない。未知のタイプではあるが、妖魔の気配を放ち、普通の――退魔師ではない――人間の目に見えない存在を、このまま放っておくわけにはいかなかった。
 圭一郎が宝珠を握った手を軽く上げる。次の瞬間、その手には退魔の剣が出現した。
「征二郎!」
「よし!」
 征二郎はいつものように剣を受け取り、慣れたしぐさで鞘を払う。抜き身の剣を構え、子どもの方へ一歩踏み出した。
「!」
 振り向いた子どもが二人の視線に気づき、はっきりと驚きの表情を浮かべる。
 じりじりと征二郎が近づく。
 子どもは思わず後ずさったが、弓道場の扉に突き当たる。
「動くな!」
 追い詰めた形になった子どもに、征二郎は低く言った。子どものような姿をしているとはいえ、相手は妖魔である。いつどのような攻撃を仕掛けてくるかわからない。
 そのまま、征二郎はゆっくり剣を振り上げた。
 その時。
 突然、弓道場の扉が開いた。
 中から出て来たのは、滝護宏である。白い道着に黒い袴を颯爽と着こなした姿は、端正な顔立ちによく似合っていた。
 護宏は一瞬子どもに視線を落としてから、まっすぐに征二郎を見つめた。
「何をしている?」
 叱責するような口調に、征二郎は少なからず驚く。護宏は寡黙でめったに感情を表に出さない。声を荒げる場面など、征二郎は目にしたことがなかった。
 口を開いたのは、背後の圭一郎だった。
「ふーん、見えてるんだ、この妖魔が」
「妖魔? まさか」
 護宏はかたわらで見上げている子どもに目をやる。そして、静かに語りかけた。
「助けを呼んでいたのはおまえだな。妖魔なのか?」
「……」
 子どもは無言だったが、護宏をすがるような目で見上げたまま、護宏の袴をぎゅっとつかむ。
「この子が何かしたのか?」
 二人に向かい、ふだんの静かな口調で、護宏が問いかける。
「まだ何も。でも退治の邪魔はしないでくれないかな」
 圭一郎の返答には、いつになく突き放したような響きがあった。征二郎はいぶかしく思いながら、とりあえず構えを解き、護宏に向ける形になっていた剣を下ろそうとする。
「征二郎!」
 圭一郎が強い調子で言う。
「下ろさなくていい」
「え、だって……」
「いいんだ」
「……」
 征二郎は戸惑いを隠せなかった。
 圭一郎がいつもと違う。どう見ても、同級生に見せる態度ではない。だがその様子に圧倒されて、征二郎は剣を下ろすことができなかった。
「どういうつもりだ」
 護宏が征二郎の肩ごしに、圭一郎に問いかける。
「こっちが聞きたい。なんで妖魔をかばうのか」
「妖魔かどうかは知らない。だが助けを求められたらかばうのが普通だろう?」
「人を襲ったらどうするんだよ!」
 圭一郎はまっすぐに護宏を見たまま、一歩歩み寄る。護宏はその鋭い視線を正面から受けた。
 護宏が口を開きかけた時。
「襲わないよっ!」
 不意に、子どもが叫んだ。
 護宏の袴をつかんだまま、おびえた目でこちらを見ている。
「そんなことするもんか。約束したもん」
 征二郎は少なからず驚いていた。ことばを話す妖魔など、今までに見たことがない。
 それも、必死の表情で。
「……こう言っているが?」
 ややあって、護宏が静かに言った。
「妖魔の言うことなんか、信じられないね」
 圭一郎の言葉はにべもない。
 張りつめた沈黙が流れる。
(これ、決着つくのか?)
 征二郎の頭に、ふとそんな疑問が浮かんだ。
 妖魔の気配を感じることのできない征二郎には、圭一郎がなぜここまでむきになっているのかが理解できない。少なくとも、今の状態でこの子どもを斬ることはためらわれる。
 だが、圭一郎はどうしても譲る気はないようだ。護宏も、何を意図しているのかはわからないが、子どもを見捨てるつもりはないだろう。
 自分がなんとかしなければ事態が動かないような気がして、征二郎は珍しく必死に考えをめぐらす。
 その隙を、子どものほうが見逃さなかった。
 わずかに切っ先が逸れた瞬間、護宏の袴から手を放し、二人の横を素早くかいくぐる。 
「!」
 一瞬のことで、誰もとっさには動けなかった。その間に子どもは裏門の方へ駆けて行き、そのまま見えなくなった。
「気配が消えた」
 追いかけようとした圭一郎が足を止め、きっと護宏をにらむ。
「おい……逃げられたじゃないか!」
 だが護宏は落ち着き払って答える。
「誰か被害に遭ったのか?」
「そういう問題じゃない。それに……」
「もうよせよ、圭一郎」
 なおもいきり立つ圭一郎の袖を、征二郎が引っ張る。ふだん止めに入るのは圭一郎の役割だが、当の圭一郎が止めないのだから、自分が止めるしかない。そう征二郎は思った。
「なんでそんなに熱くなってるんだよ。俺わけわかんねえよ」
「……」
 圭一郎は不承不承といった様子で、一歩退く。
「ほら、行くぞ。邪魔したな、護宏」
「……ああ」
 護宏は特に気分を害した様子もなく、いつもの無表情でうなずいた。

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