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7 妖魔の多い休日

2 水渡りの少年

 その場にいた全員の目が、声の方向に向けられた。
 対岸の釣り人が、釣竿を手に何やら懸命に踏ん張っている。限界までたわんだ釣竿から伸びた糸の先は、川の中に消えていた。
「なーんだ」
 征二郎が拍子抜けした声を上げた。
「大物がかかっただけか」
「違う!」
 叫んでから、圭一郎は川面をじっと見つめた。波立つ水の下から、はっきりと妖魔の気配が感じられる。タイプはわからないが、ぐいぐいと水中から糸を引いている動きがわかった。
「妖魔だ。川の中にいる」
 おそらく、先程から感じられたもうひとつの気配だろう。すぐ近くの子どもが放つ気配に気を取られていたせいで、気づくのが遅くなった。いや、正確に言えば、気づいてはいたのだが後回しにしていた。
「はあ? 妖魔釣っちゃったのかよ?」
「うん」
 別の意味で大物だよね、と思いながら、圭一郎はうなずいた。
「どうする?」
「行くしかないだろ。ここからじゃ斬れないんだし」
「だな」
 川に入って渡ろうと思ったのか、征二郎は流れに歩み寄る。 危ないと言おうとした矢先に、冷静に口を開いたのは護宏だった。
「このあたりは船も通る。渡れる深さじゃない」
(邪魔するのか協力するのか、はっきりしてくれ)
 圭一郎は軽く護宏をにらむ。
「そっか。じゃあ橋だ」
 征二郎は川べりを下流に向かって走り出した。百メートルほど先に橋が見える。回り道ではあるが、考えられる最短のルートだ。
 圭一郎も征二郎を追って走り出そうとしたが、ふと護宏の声が聞こえたような気がして振り向く。
 子どもが無造作に流れに向かって足を踏み出し、護宏が呼び止めたところだった。
「大丈夫なのか?」
「見ててください」
 子どもは元気よく答える。
「あんなのと一緒じゃないって、わからせてやりますから!」
 子どもは川に足を踏み入れる。その足は水面から少しだけ浮き上がり、濡れることはない。そのまま軽やかに水の上を走って行く姿が見えた。
(あいつ何を……)
「圭一郎! 何やってんだよ」
 征二郎の声に、圭一郎ははっと顔を上げる。征二郎だけが現場に着いても、宝珠を剣にすることができなければ意味はないのだ。
 圭一郎は走り出す。走りながら、これから立ち向かうことになる妖魔について頭をめぐらした。
 水の中にいて姿の見えない妖魔を、いかにして剣の届くところに引き上げるか。
(水の中の妖魔なら……海坊主タイプか、それとも河童タイプ……)
 海坊主タイプは巨大な出没・徘徊型で、船の航行を妨げる。そんなものが相手だとすれば、釣竿と釣り糸ごときで引き上げられるはずもない。また、河童タイプは水泳中の人を川に引きずり込んで溺れさせる傷害型である。こちらはこちらで、釣り人が捕まってしまうと危険だ。
(糸を切ったら逃げられるし、水に入ったらかえって危ないし……なんとか剣の届く範囲に引っ張れないかな)
 走りながらでは、妙案も浮かばない。そのまま圭一郎は土手を駆け登り、サイクリングロードづたいに橋を渡り、折り返して対岸の土手を上流に向けて走る。
 釣り人はまだ竿を握り締めて頑張っていた。息を整えながら、二人は近くに走り寄る。
「すいません、ちょっといいですか?」
「静かにしてくれよ、せっかくの大物が逃げるじゃないか」
「あの……」
「忙しいんだ、あとにしてくれ!」
 釣り人に声をかけるが、見事に無視される。自分が釣り上げようとしているのが妖魔だとは、さすがに思いもよらないのだろう。
「どうする?」
「とりあえず、釣り上げるのを手伝ってみるか」
 圭一郎がそう指示し、再び釣り人に声をかけようとした時。
「わあ、なんだ?」
 征二郎が叫んだ。圭一郎も目を見張る。
 川の水に異変が起きていた。
 岸近くの一帯、ちょうど妖魔の気配のするあたりで、水量が見る間に減っていく。水が勝手に妖魔をよけて流れようとしているかのようだ。水がすっかり引いてしまえば、川底で釣り糸を引いていた妖魔が姿を現すだろう。
 決して自然に起こり得ることではない。なんらかの力が働いている。
 圭一郎は、少し上流に目を向けた。
 あの子どもが川の上でかがみこんでいた。水の上にわずかに浮かんでいる。そっと手で触れているあたりから、流れが不自然に曲がっていた。
(あいつが流れを変えているのか!)
「出るぞ!」
 征二郎の声に、圭一郎は宝珠を握り締めて振り返る。なにを目的としているのかわからないが、今は子どもの挙動に構っている時ではない。少なくとも妖魔の姿があらわになることは、彼らの助けになる。
 水が引いていくと、釣り糸をしっかりとくわえ込んだ巨大な魚の顔が、まず目に入った。
「おおっ!」
 釣り人が歓喜の声を上げる。圭一郎と征二郎は、緊張した面持ちで様子を見守った。
 が、次の瞬間。すっかりむき出しになった川底に現れたものの全貌を見て、一同は絶句する。
 海坊主でも河童でもない。川底でびちびちと跳ねていたのは、大人の背丈ほどの長靴だった。口の部分は巨大な魚の頭の形だが、腹から尾にかけては、どこをどう見ても長靴である。 妖魔ではあろうが、あまりにも緊張感を削ぐ姿だ。
「なんだこりゃ……」
 征二郎が唖然とした声を出す。圭一郎も脱力するのを抑えられなかった。
(これは……使い古されたギャグか?)
 大物を釣ったと思ったら長靴。
 ギャグとしては新鮮味に乏しいが、現実に目にすると異様な光景である。
「なんだよこれ、幻の巨大魚じゃないのか?」
 釣り人が叫ぶ。声が裏返っていた。
(そんなものがこんな町なかで釣れるかっ)
 圭一郎はすかさずつっこむが、さすがに口には出さない。
「これ、妖魔ですよ?」
 かわりにそう言ってみせると、征二郎が後を続けた。
「俺ら退魔師で、これ退治しに来たんですけど」
「ほ、ほんと?」
「こんな生き物、いるわけないじゃないですか」
「……た、たしかに」
 釣り人は口をぽかんと開けたまま、妖魔を凝視していた。
「……あの、退治していいですか?」
 いつまでも固まっている釣り人に、圭一郎が尋ねる。
「あ、あーっ、ちょっと待って」
 釣り人はごそごそとポケットを探り、携帯電話を取り出した。
「せっかくだから、記録しとかなきゃ」
 そう言って写真を撮りはじめる。
(緊張感ないなあ)
 いくぶんあきれながら、圭一郎がなにげなく目をやると、征二郎も一緒になって、携帯電話で妖魔の写真を撮っていた。
(お、おまえまでー!)
「なあ圭一郎。正面顔も撮っといたほうがいいと思う?」
「もう、そのへんにしておけよ」
 たまりかねた圭一郎は、征二郎の手から携帯電話をもぎ取り、かわりに宝珠の剣を持たせる。
「おまえが持つのはこっち!」
「へーい」
 気のない返事ではあったが、征二郎はすらりと剣を抜き、無駄のない動きで振り下ろす。長靴と巨大魚が融合した奇妙な妖魔は、音も立てずに溶けるように消えていった。
 ふう、と圭一郎は一息つきかけたが、川の流れにはっとする。
「征二郎。上がれ! 水が戻るぞ」
 とっさに叫ぶ。征二郎が岸に駆け上がったのとほぼ同時に、川はもとの流れを取り戻した。一気に水が流れ込み、川底はたちまち見えなくなる。
 圭一郎は対岸に目をやった。水の上を軽やかに駆けていく子どもの姿が見える。一部始終を対岸から見ていたのだろうか、護宏が子どもを迎えていた。圭一郎が見ている前で、子どもは護宏と一言二言ことばを交わし、すっと消えた。
 後に残った護宏はゆっくりと立ち上がり、圭一郎のほうに目を向ける。
 しばらくの間、二人は川ごしに視線を合わせていた。圭一郎は護宏をにらんでいたが、距離に隔てられ、護宏の表情はよく見えない。
 やがて護宏は向きを変え、土手を上がって行く。
(……信用したわけじゃないからな)
 遠くに見える護宏の後ろ姿に向かって、圭一郎はそうつぶやいた。

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