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8 ヒドゥン・プロジェクト

3 ナギ(下)

 圭一郎はコートに目を転じた。ナギがふわりと床に降り立ち、コートに向かって駆けて行くのが見える。
(誰かに気づかれないだろうか)
 ナギの姿は自分にははっきりと見えている。自分たち以外にも誰か、ナギの見える者がいるのではないかと、圭一郎は気が気ではなかった。
「……あの子は沙耶と俺にしか見えないと思っていた」
 不意に護宏が口を開く。彼もやはり、ナギを注視したままだった。
「見える人間は、そうそういない。心配しなくてもいいと思う」
「出水さんにも? 昔から?」
「ああ。もっとも、滅多に見ることはなかったし、見たとしても一瞬だったんだが」
 二人の視線の先でナギがコートに入り、リングを見上げた。すっと片手を上に伸ばすと、ふたつの妖魔の気配のうち、弱い方が消えていくのがわかった。
(本当に消せるんだ……)
 話には聞いていたが、護宏の珠が妖魔を消す場面に立ち会ったのは初めてである。圭一郎は軽い驚きを感じていた。
「リングの妖魔、消えたよ」
 驚きを抑え、圭一郎は護宏にも聞こえるようにつぶやく。こうして一緒に事態を見守っている以上、自分にしかわからない気配の変化を護宏に伝える責任がある。それに今回妖魔を消したのは、護宏の持つ珠なのだ。
 コートの中では、黎明館が攻撃に転じていた。得意の速攻でゴールに迫る。ゴールの下にいたナギがあわてたように跳躍してコートの外に逃れた直後、黎明館の選手が放ったシュートが、この試合で初めて決まった。応援席から歓声が起こる。
 圭一郎はほっと一息ついた。第一ピリオドでつけられた点差を覆せるかはわからないが、まだ試合時間は残っている。
 ナギはそのまま、観客席の真下に駆け込んで見えなくなった。気配から、一階通路に出た様子がわかる。どうやらナギは、地面や水面からわずかに浮かぶことはできるが、二階の観客席まで浮かび上がることはできないようだ。通路と階段を使って戻ってくるつもりなのだろう。
(いくつか気になることはあるけど……まず)
 圭一郎は傍らの護宏に目を向ける。
「さっきさ、あいつの名前……忘れてたの?」
「そうじゃない」
 護宏は静かに答えたが、わずかに言いよどんだような、言葉を選んだような間があった。
「はじめから、聞いた覚えがない」
「だって、呼んでたじゃないか」
「そんな気がしただけだ」
「聞いたのに忘れたんじゃなくて?」
「俺があの子の声を聞いたのは、この間、おまえたちが弓道場の前に来ていた時が最初だった。忘れるほど時間はたっていない」
「それは、確かに」
 圭一郎は現れた時のナギの顔を思い浮かべた。名乗ってたかだか二週間程度であれば、あんなに喜びを顔いっぱいに浮かべるはずはない。
「じゃあ君は、どうして名前がわかったんだ?」
「急に思い浮かんで、なんとなくあの子の名前だという気がした」
「でもそんなものを言ってみて、当たるもの?」
「よくあることじゃないのか?」
「え?」
「行ったことのない場所の風景とか、古い寺の創建当時の形とか……思い浮かんだことがその通りだった、ということは珍しくないんだが」
 あまりにもさらりと出されたその言葉に、圭一郎は驚愕する。
「よくあるわけないだろう!」
 思わず大声になる。
 急に、言い知れぬ居心地の悪さを感じた。現実には起こり得ないことを見せられたような気がする。たまたま思い浮かんだといって、知らないはずの名前や風景を言い当ててしまうことなど、可能なことなのだろうか。
 既視感とかデジャヴとかいった言葉を、もちろん圭一郎は知っている。初めて見た風景などが、見たことがあるように感じられることだ。心理学では記憶のある種の錯覚だと説明されている。だがそんな感覚で、聞いたことのない名前を正確に口にすることはできそうにない。
 護宏はいつもの平然とした表情のまま、驚愕する圭一郎に応じた。
「そうか。じゃあこれも『過剰』なんだな」
「なに、それ」
 圭一郎は鋭く聞き返す。なにか重要なキーワードになる気がした。
「俺はどうも、記憶が混乱しているようなところがある。経験していないことを覚えているような気がする一方で、経験したことを忘れているような気もする。記憶が余計なのか足りないのかわからないと沙耶に言ったら、『過剰な記憶』と『欠落した記憶』だと言われた」
「その『過剰な記憶』のほうだ、と?」
「そうだな」
「『欠落』の方は?」
「わからないから『欠落』なんだが」
「あ、そうか」
 ふと気づく。
 護宏は寡黙だが、尋ねるとそれなりに答えてくれるらしい。時折妙な気配はするし、妖魔と同じ気配を放つ存在に懐かれてはいるが、本人もその理由をはっきりとは知らないようだ。
 ならば、護宏に関する情報は――凜や沙耶といった周辺からだけではなく――護宏自身からも得られるのではないか。むろん妖魔なのではないか、とは言えないが、尋ねられることは多そうだ。
「そのへん、一度ゆっくり話を聞かせてもらえないかな」
 そう言ってみる。
 思えば、護宏と会話する時は大抵、妖魔を退治しようとやっきになっていて、落ち着かない状況だった。気配の奇妙さからくる警戒心が先に立って、学校でもきちんと向き合って話そうとしてはこなかった。
 だが話してわかる相手なら、話してみることも必要だろう。内容を信じるかどうかは別として。
 護宏はしばらく考え、返事をよこす。 
「……沙耶も一緒でいいか」
「いいけど、どうして?」
「沙耶は俺の記憶の謎を解き明かすんだと懸命になっているが、俺は何もそこまでしなくても、と思う。第三者の見解を知りたい」
「……うん、いいよ」
 圭一郎は慎重にうなずく。
 護宏に対して、圭一郎はまだ警戒を解いていなかった。だが情報源は多いほうがいい。それに相手が話す気になっているのなら、乗らぬ手はなかろう。 

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