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13 封印の数珠 前編

1 秘宝の力

 たなびく雲が、あかがね色に染めあげられている。仰ぎ見れば夕闇は既に近く、東の方から空が藍色を帯びてきていた。
 晩秋の夕方、時刻はさほど遅いわけではないが、頬を撫でる川べりの風は冷たく、冬の兆しを感じさせる。
 巳法川沿いの道を、滝護宏は一人で歩いていた。かたわらに出水沙耶がいないのは、母親が熱を出したためである。
 ふと、護宏は足を止め、夕日の輝きを失いつつある川面を見渡した。上流から下流へ、川の流れに沿ってすっと視線を移動させる。川はやがて海に至るが、この位置からは河口は見えない。
 護宏はそのまましばらく下流の方を眺めやっていた。
「なにか気になることがあるのかね?」
 背後からだしぬけにかけられた声に、護宏はゆっくりと振り向く。
 夕日を背にして立っているのは中年の男だった。短く刈った髪に鳥打帽をかぶり、ブルゾンのポケットに無造作に手を突っ込んでいる。
「……前田浄蓮、か」
 そうつぶやいて、護宏は男――前田に視線を返した。
 前田の問いに答える様子は見られない。
「ふ、まあいい」
 前田は細い目をさらに細め、軽く笑みを見せた。
「私のことは忘れてはいないだろうね?」
「今日はなんの用だ」
 護宏は低く問いを返す。直接答えてはいないが、その尋ねようは以前に会ったことを前提としている。
「君にぜひ見てもらいたいものがあってね。ちょっと来てもらえんかな」
 そう言って前田は護宏に背を向け、川上へと歩き出す。
「……」
 護宏は少し考え、前田の後に続いた。  

 町はずれ、川を少し上流に上ったところに小さな公園があり、その横に使われていないプレハブの建物がある。
「黎明館の実験室が使えなくなったからな、場所を探すのに苦労したよ」
 そう言いながら、前田は鍵を取り出した。
 護宏はその様子を注意深く見守る。相変わらず無言だったが、前田は意に介した風もない。
「だがまあ、ここも悪くない」
 護宏に言っているのか独り言か判然としない言葉を吐き、前田は鍵を開ける。
 扉がきしんだ音を立てて開いた。事務所だったのだろうか、中には事務机と椅子が置かれている。中央に置かれた机を除いてほこりをかぶっているところからすると、大概は前田には用のないものらしい。
 護宏はふと部屋の隅に目をやった。四隅に常緑樹の枝が立て掛けられている。
「シキミの枝だ。結界の目印にしてるんでね」
 護宏の視線に気づいた前田が、問われもしないのに答える。
「結界?」
「妖魔を気配ごと外に出さんようにする。ああ、戸を閉めてくれんか?」
 扉を閉める護宏を、前田は意味ありげに見やった。
「これで、中に妖魔がいても出られんし、外からもわからないというわけだ」
 部屋の中央にある、唯一埃を払った形跡のある事務机は、もとからその位置にあったわけではないらしい。床に引きずったあとが残っている。その上に置かれたガラスの鉢に、前田はポケットから取り出したものを入れた。
 からん、と澄んだ音がした。
 護宏のまなざしが、わずかに動く。
 それは透明な珠だった。手のひらのくぼみにちょうど乗るほどで、宝珠兄弟の白い珠とほぼ同じ大きさだ。ガラス鉢の中のそれは小じゃれたインテリアのようだったが、そんなものであるはずがない。
「封印の数珠……」
 護宏は珠を見つめたまま、低くつぶやいた。
「あん? 何か言ったかね?」
「いいや」
 言葉を濁した護宏は、逆に問いかける。
「その珠は?」
「摩尼珠(まにじゅ)という、願いのかなう秘宝でね。こんなふうに妖魔をとらえておける」
 前田の言葉とともに、二人の前に黒い影が出現した。背丈は長身の成人男性ほど、人の形をした影法師が立体的になったかのような姿だ。その場から動こうとはせず、ゆらゆらと立ちつくしている。
「条件の合う人間のあとをついてまわるだけの妖魔だ。それと、もう一体」
 次に出現したのは小さな猿のような獣だった。尾と指の長さが目を引く。毛並みは本物の猿のように見えるが、突然の出現はそれが普通の猿などではないことを示している。
「この珠があるからな、こいつらを好きなように動かせる。それに、こんなこともできる」
 前田の言葉がいかなる鍵となったのか――それとも、言葉ではないなんらかの契機によるのか――二体の妖魔に変化が表れた。影法師の上半身にあたる部分がひょろりと伸びて広がり、猿に覆いかぶさる。猿を包み込んだ影は、少しずつゆらめきながら形を変えていき、やがてもとの影法師の形に戻っていく。
 影法師の妖魔が猿の妖魔を呑み込み、吸収した――ように見えた。
「これは二つの妖魔の特性を合わせ持つ。より強力な妖魔が誕生したというわけだ。わかるかね? この意味が」
 前田が問う。
 護宏は無言だった。だが彼の視線は新しく合成された妖魔から離れない。
「興味深いだろう? 摩尼珠を持つ私にしかできん技だ。ああ、そろそろしまっておかんとな」
 そう前田が言うと同時に、影法師はふっと消えた。妖魔に姿を消すように命じたのか、摩尼珠のつくりだす結界かなにかに閉じ込めたのかは判別できない。
 護宏は尋ねる。
「……なぜ、俺に見せた?」
「君の協力を得たいんでね。私ならこうして君の眷属の力を強めてやることもできる」
「眷属?」
「ああ、君があの者たちをなんと呼んでいるのか知らんのでね。君に従う妖魔どものことだよ」
 護宏が前田の方を向く。前田はここぞとばかりにあとを続けた。
「私に協力すれば、彼らを強くしてやろう。君だって彼らが退魔師どもにいつまでも見逃してもらえるとは思ってないんだろう?」
「……」
「退魔師になど退治されんように、先手を打とうということだよ。君にも悪い話ではないと思うがね」
「あいつらを合成するということか?」
「そうして強くなる」
「なるほど」
 護宏は低くつぶやいた。
 そして、問う。
「協力とは?」
「さすが、話が早い」
 許諾と受け取ったか、前田は満足げにうなずく。
「君は妖魔の役割を知っているかね?」
「役割?」
「その様子では、知らずにここにいるということか」
 前田は意味ありげなつぶやきを発し、続ける。
「妖魔の役割とは、汚れ切ったこの世を浄化することだ」
 護宏はわずかに首をかしげる。理解できていないのだと思ったのか、前田はさらに続けた。
「妖魔が現れる時代や場所を考えてみるがいい。人間が増え、豊かになり、自然を破壊して資源を食いつぶすようになってきて、妖魔はますます出てくるようになっただろう? 人間はもはや、世界に有害な存在になってしまった。地球か――この世界自体が持つ自浄作用のあらわれ、それが妖魔なのだ」
「……」
「妖魔は主に人間に危害を加える。それはあれが人間を減らすための存在であることのあかしに違いない。人間はこの世界にあまりにも増えてしまったのだよ」
「人間を減らすことが『浄化』なのか?」
「そう。それは自然な姿だし、あるべき姿だ。人間には面白くないかも知らんが、世界のためならしょうがない」
「冗談というわけでもなさそうだな」
 護宏はつぶやいた。
「それで、俺にどうしろと?」
「君の力を私に貸してほしい。世界の浄化のためにな」
「具体的には?」
「君に従う者たちに命じてもらいたい」
「彼らは俺の道具ではない」
「おや、そうかね?」
 前田は気にした風もない。
「だが彼らを危険にさらしたいとは思ってないんじゃないかね?」
「だとしたら?」
「彼らを危険な目に遭わせるものを未然につぶしておいた方がいいと思うがねえ。守ってやりたくはないか?」
 護宏の表情がわずかに動いた。核心をついたと見て、前田はさらに言いつのる。
「私に従えば、私がその力をやろう。私が命……頼んだ標的をちょっと探ったり消したりするだけで大きな見返りが来るんだ。君にも彼らにも悪い話じゃないだろう?」
「それは……」
 護宏の態度は、返答に迷っているようにも見えた。前田は満足げにうなずく。
「即答というのもなんだから、少し時間をやろう。考えておくといい」
「……」
 護宏は無言のまま、扉を開ける。一歩外に踏み出して、ふと振り返った。
「ひとつだけ聞いておきたい」
「なんだね?」
「この間、桜公園に妖魔を仕掛けたのは?」
「ああ、やっぱりカメラに気づかれたか」
 前田はこともなげに答える。
「君の力を見ておきたかったんでね」
「無関係の人を巻き込んで?」
「大したことじゃないだろう。危害を加えるつもりはなかったんだし。気に障ったのなら謝るがね」
「……わかった」
 護宏はそのまま建物の外に出て、既に夕闇の濃い川べりを歩き出した。前田は窓ごしにその後ろ姿をじっと見送る。
「とらえておくにはまだ力が足りんか。だが、もうすぐだ」
 そうつぶやいて、前田は口元をゆがめ、にやりと笑った。

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