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20話 淵源・後編

4 世界変わりし夜(下)

 圭一郎の様子は、どう見ても普通ではなかった。
 蒼白な顔、見開かれたうつろな目、かすかに震える足元。
 なにか途方もなく恐ろしいものを見てしまったかのような、凍りついた表情で、圭一郎は立ちつくしていた。
「お、おい……」
 一瞬、声をかけるのがためらわれた。
 その時。
「すばらしい!」
 妙に高揚した前田の声が響いた。
「そうか、あれが淵源そのものだったんだな。ならば封じる方法もある。こうしてはいられないぞ」
 前田は征二郎たちにはもはや見向きもせず、うきうきと工場から出て行く。
 護宏を従えるという前田の計画は達成できなかったはずだ。それなのにまだなにかをしようとしているらしい。
(懲りない奴だなー)  
  征二郎はそう思った。
「あいつは……滝をどうにかできると思ってるのか」
 つぶやいた圭一郎に、征二郎は振り返る。自失した状態からなんとか立ち直ろうと、彼は彼で努力していたのだろう。まだ顔色は悪いが、話すことはできそうだ。
「ど、どうなんだ?」
 征二郎は反射的にそう尋ねてから、言葉を継ぎ足す。
「その……やっぱり護宏って、妖魔……なのか?」
「妖魔?」
 圭一郎の顔に引きつった笑いが浮かぶ。あまりにもばかばかしい言葉を聞いたと笑い飛ばしたいのに、笑うことができない――そんな様子だった。
「そんな、なまやさしいものじゃない」
「え、じゃあ……」
 征二郎は絶句する。
 圭一郎はなにを知っているのだろうか。
「僕だって知らないよ。滝がなんなのかなんて。でも……」
 圭一郎は自分の気持ちを整理しようとしているのか、ぽつぽつと語り出す。
「……出水さんがなにか叫んだ時、気配がしたんだ。一瞬だけど、すさまじい気配が」
 そう。
 圭一郎は思い出して身を震わせる。
 一瞬、ひどく恐ろしい気配がした。身の毛がよだつ、とはこういうことを言うのだろうか。圭一郎は立ちすくみ、動くことができなかった。  世界が闇に呑み込まれた――そう思えた。
 その闇の元凶がすぐ近くにいる。だが、その方向に顔を向けることにさえ、かなりの努力が必要だった。
 やっとのことで目を向けると、すぐ目の前にそれが――護宏がいた。
 強い妖魔も弱い妖魔も見てきたし、さまざまな気配を感じ取ってきた。自分たちの手におえるかどうか、判断する自信はある。だがあの時感じたものは、強さをはかるというレベルのものではなかった。
 本能が悲鳴をあげ、その場ですくみあがるしかなかった。
 あの気配を思えば、その後護宏が妖魔を一瞥しただけで消し、沙耶をつれてその場から消え去ったことなど、些細なことでしかない。
 護宏に何が起こったのか、圭一郎にはわからない。だがひとつだけはっきりとしていることがあった。
 彼はもう、自分たちの知っている存在ではない。
 なにか、もっと恐ろしいもの。
「僕たちは……」
 口の中が渇き、うまく声が出ない。
「なにか、とてつもないものの誕生に立ち会ってしまったのかも知れない」
 自分の発した言葉の重さに、圭一郎は押しつぶされそうな気がした。
 重苦しい沈黙があたりを覆う。
(これから世界はどうなるんだろう)
 淵源――かつて世界を闇に呑み込んだ、封印された存在。
 それが護宏だというならば、世界は再び闇に覆われてしまうのかも知れない。
 「闇に覆われる」とは具体的にはどういう状況なのか、圭一郎にはわからなかったが、あのすさまじい気配の延長線上にあるのだろうとは、おぼろげながら想像できる。
 ふと。
(?)
 静けさの中、ぷちぷちという小さな音が断続的に聞こえるのに、圭一郎は気づく。
(なんの音だ?)
 顔を上げ、征二郎の様子を見た圭一郎は愕然とした。
 征二郎は携帯電話の画面に見入っていた。ぷちぷちという音は、ボタンを押してメッセージを入力する音である。
(メール打ってるしー!)
 征二郎が静かだったのは、圭一郎の話に耳を傾けていたからでも、事態の深刻さに言葉を失っていたからでもなく、携帯メールを熱心に打っていたせいだったのだと、圭一郎はやっと気づく。
(なにを考えてる征二郎!)
 この状況でそのような緊張感のない行動をしている弟が理解できない。
「よし」
 送信ボタンを押して、満足げに征二郎は圭一郎の方に向いた。
「護宏にメールしといたぜ。いきなり消えてびっくりしたから、なにがあったか教えろって」
「……」
 圭一郎は言葉を失う。
 なんなんだ、この弟は。
 すさまじい気配を放って消えた存在――もしかすると世界を闇に落とすかも知れないもの――に携帯メールを打つ。つまり、そんな存在が携帯メールをチェックして読み、メールなり電話なりで返事をしてくることを期待している。
 どうやったらそんな発想が可能なのか、圭一郎にはどうしてもわからなかった。
「あ、あとおまえが気配に引いてたのも言っといたし」
 圭一郎の絶句を別の意味に取ったのか、征二郎がつけ加える。
「……あ、あのな」
「どーかした?」
「今のあいつがメール見るように見えるか?」
「見るだろ、ケータイ持ってるんだから」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 なにか根本的にずれている気がした。
 征二郎は心の底から不思議そうな表情で聞き返す。
「意味って?」
「あいつはもう、今までのあいつじゃない。なんなのかはわからないけど、僕たちの日常の世界にはいない存在だ。今までみたいな行動をするかなんてわからないじゃないか」
「でもこれ取り返してくれた時、あいついつも通りだったぜ」
 征二郎の手に宝珠が握られていた。
 いつも通り。
 征二郎にはそう見えていたのだ。
 気配がわからないとは、かくも幸せなことか。
「はあ……もういいよ」
 圭一郎は一切の議論をあきらめた。もとより、考えてどうにかなる事態ではない。
 もしかすると征二郎のほうが案外正しいのかも知れない。だが、あの気配を感じてしまった今、それを素直に受け入れるわけにはいかない。
「とりあえず帰ろう」
「うん。あれ、これなんだ? 出水さんのかな」
 なにかを拾い上げている様子の征二郎を置いて、圭一郎は先に外に出る。
 空は既に暗くなっていた。冷たい風が吹き抜け、銀色の月が冴え冴えと凍った光を落としている。
 いつもと同じ、冬の夜。
 だがこの夜は、昨日までの夜ではない。それを圭一郎は知っている。
 世界はついさっき、変わってしまったのだ、と。

(第二十話 終)

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