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21話 止まらない日常

2 いつもの朝(下)

 校舎に入って廊下を歩いていると、突如征二郎が声を上げた。
「あー! 護宏!」
「なんだって?」
 圭一郎は信じられない思いで、征二郎の指す方向を見る。廊下の先の方を歩く――おそらくは教室に向かっているのだろう――後ろ姿は、確かに滝護宏のものだった。
(どういうことだ?)
 彼がいつも通り登校しているなどと、圭一郎は想像だにしていなかった。
 しかも。
 圭一郎は護宏の手にあるバッグに目を止めた。たしか、部活用に使っているバッグである。
(あいつ、朝練に出てたんだ)
 世界を闇に呑み込むかもしれない存在が、朝早くから部活に参加していた。
(僕は悪夢を見ているんだろうか)
 それもなんだかひどくシュールな悪夢。
「ちょっと聞いてくる」
 くらくらしている圭一郎を置いて、征二郎が走り出していた。止める間もなく護宏に追いつき、横に並びさまに肩に手をかける。
「おい護宏、なんで返事よこさないんだよ」
 護宏は征二郎の方を向いて立ち止まった。圭一郎の位置からは、ちょうど二人の横顔が見える。
 圭一郎は少し距離を保って二人の様子を見守った。周囲を登校してきた生徒たちが行き交い、廊下はいくぶん騒がしい。
「ほら、ゆうべケータイにメールしたじゃん」
 征二郎の声に、護宏は考え込むような様子を見せた。ついで、ちょっと待てと征二郎を押しとどめるようなしぐさをしつつ、ポケットから携帯電話を取り出して画面を眺め、やがて顔を上げて征二郎になにか一言言った。
「見てなかったのかよー」
 脱力したような征二郎の声としぐさ。護宏がそれに答えているようだが、話の内容までは聞き取れなかった。
「じゃ、話してくれるんだな?」
 征二郎の反応から、どうやら護宏がメールに返信しなかったのは単に見ていなかっただけだということと、事情を説明するつもりは一応あるようだということがわかる。
 圭一郎はひどく居心地の悪い気分を感じていた。
 目の前で今行われていることは、ごくあたりまえの日常会話にすぎない。だが、護宏が昨夜のメールを見た上で説明するつもりがあるということは、昨夜のできごとが現実だったということだ。
 あの気配を放った存在が、目の前に同級生の一人として立っている、その状況をどう捉えてよいか、圭一郎にはどうしてもわからない。
 不意に護宏がこちらを向いた。
(気づかれてた?)
 夢の中で振り向いた彼の表情が頭をよぎり、思わずすくみあがる。
「昼休み、屋上で」
 聞き取れなかったはずの護宏の声が、なぜかそれだけははっきりと聞こえた。

 昼休み。
「圭一郎、なにのろのろしてるんだよ」
 屋上へ向かう階段を上りながら、征二郎が声をかけてくる。
 いつもとなんら変わらぬ月曜日の午前中を、だが圭一郎だけは落ち着きのなさと居心地の悪さを感じながら過ごしていた。
 護宏があんな力を見せつけておきながらふだん通りの生活を送っている意図が理解できない。
 昼休み、それが明らかになるのだろうか。
 だが彼が屋上でなにを話すつもりなのか、まったく読めなかった。
 知りたくはあるが、知るのが怖いような気もする。
 その迷いが、彼の歩みを遅らせていた。
「あ、いたいた。おーい、待たせたなー」
 屋上のドアを開け、征二郎が叫んでいる。既に護宏が来ているのだろう。
 圭一郎は階段の踊り場からドアを見上げた。ドアの向こうからは、特になんの気配も感じられない。
(それでも――いるんだ、あいつが)
 圭一郎は重い足取りで階段を上り、屋上へと足を踏み出す。
 どんよりと曇った空の下でたたずむ護宏に、ゆっくりと近づいていく。
「圭一郎」
 先に言葉を発したのは、護宏のほうだった。
「なにをそんなにおびえているんだ?」
(!)
 いつもの物静かな口調で、だが心底不思議そうに尋ねてくる護宏を、圭一郎はきっとにらむ。
「よくそんな風に言えるよな。あんな気配させておいて」
「気配……」
 不意に護宏が笑った。意図のまるで見えぬ表情に、圭一郎はぎょっとする。
「こうか?」
 瞬間、あの気配が圭一郎を襲った。世界ごと闇に呑み込まれるような感覚に、圭一郎は思わず両手で頭を覆う。
 が、それは一瞬で通り過ぎた。 
 目を開けた圭一郎の前には、なにも変わらない屋上の風景が広がっている。
「圭一郎? どうしたんだよ」
 状況がよくわかっていない征二郎に支えられて、圭一郎はどうにか顔を上げる。
「……あんまり遊ばないでくれ」
 平然とした表情の護宏に対して強く出る気力も既になく、圭一郎は息を吐きながら言う。
「滅ぼされるかと思ったじゃないか」
「おもしろい表現だな」
「表現に凝ったつもりはないね」
 あの気配を思い出すだけで身体が震えてくるのがわかる。それになんとか耐えながら、圭一郎は言葉を継いだ。
「自分だけじゃなくこの学校も、町も、世界ごと消されるような感じがした。ほかにどう言えばいいんだ」
「そんな風に感じるのか」
 護宏は興味深げにつぶやいた。
「ならば、悪いことをしたな」
「まったくだよ……でも」
 圭一郎は身を起こし、護宏の正面に立つ。
 目線はまっすぐ向かい合っているが、もとより対等ではない。
「現実かどうかわからなくなってたけど、これではっきりした。昨日まではともかく、今の君は人間じゃない」
 もともと圭一郎は、確証の持てないことをむやみに口にするタイプではない。以前から奇妙な気配を漂わせていた護宏についても、妖魔だと断言する凜に対して圭一郎は断定を避けてきた。
 本人にそう言ってみせる――それは、あまりにも現実離れした結論にもかかわらず、どうにもならないほどに確信できてしまったからだ。
 だから、そう言わざるを得ない。
 苦渋の選択の末の一言。
 だが。
「そうだな」
 あまりにもあっさりと肯定した護宏に、圭一郎は絶句した。
 人間ではないということを肯定した護宏は、すなわち人間以外のなにものかとして、今ここにいる。それでいて彼は制服を着て登校し、授業を受け、人間として振舞っているのだ。
 どう反応してよいかわからない。
「……じゃあ」
 かろうじて捻り出した問いを口に上らせようとした、その時。
「宝珠! よかった、二人ともいるな」
 不意に声がかけられる。振り向くと、屋上のドアを開けて二年C組の担任教師が立っていた。
「悪いが妖魔退治に行ってほしいんだ。近くの住宅街で妖魔が暴れていて、うちに退魔師の生徒がいるはずだから退治に来てほしいと、職員室に電話があってな。五時間目にかかっても欠課にはしないから」
「わかりました。すぐ行きます」
 考えるより先に返事が出る。
 少し注意してみれば、確かにすぐ近くでせわしなく動き回る妖魔の気配がしていた。護宏の気配に圧倒されて、感じ取ってはいても気づいていない状態になっていたのだろう。
「え? 護宏の話は?」
 征二郎が空気を読んでいない問いを発する。問答無用で引っ張っていこうかと思った矢先、静かに口を開いたのは護宏だった。
「行ってこい。話はいつでもできる」
「そっか。じゃ、またあとでな!」
(たしかに、逃げ隠れはしないみたいだけど)
 階段を駆け降りながら、圭一郎は思う。
(一番いやなタイミングで中断してしまった……)
 屋上でわかったことといえば、護宏が人間ではないということだけだ。
 もはや人間ではない存在があたりまえの日常に混在している。その気持ち悪さを残したまま、圭一郎は妖魔の気配を追って走って行った。

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