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22話 シキの核

4 届かぬ言葉

 翌日の朝。
 滝護宏はいつものように制服姿で自宅を出た。授業にはかなり早いが、弓道部の朝練がある。その様子は、ごく普通の高校生となんら変わることはない。
 学校のみならず自宅においても、彼は変わらぬ日常を送っていた。沙耶と宝珠兄弟を除いて、彼の身に起きた変化に気づいている者はいない。
 橋を渡り、川沿いの道を下っていく。朝日に照らされた川面がきらきらと光を踊らせている。まだ早いせいか、付近に人影は見当たらない。
 ふと。
 目の前に人影が立ちはだかり、護宏は足を止める。
「あきらめたとでも思ったか」
 前田浄蓮が勝ち誇った表情で立っていた。
「今日こそおまえを捕らえてやろう」
「そうか」
 護宏は悠然と返した。
「また失敗すると思っているな。その余裕がいつまでもつかねえ?」
「いいからやってみろ。人間が俺を捕らえられるのか、興味がある」
「い、言われずともやるわ。後悔しても知らんからな」
 護宏の挑発するような口調に、前田は顔を赤くしながら摩尼珠を取り出し、護宏につきつける。
「摩尼珠よ、遍照の名のもとにこいつを封印せよ! オン・アビラウンケン!」 
「なるほど、そう解釈したわけか」
 護宏は納得したようにうなずいた。前田の術が効いた様子はない。そもそも護宏は、その効果のほどには始めから興味がないようだった。
「な、なぜ効かない?」
「おまえが頼みにしていたのは、那神寺の記録だな」
 前田がはっと顔を上げる。
「『遍照の光闇を払ひ、淵源なるを其名を以て封ず』――この通りでないにせよ、近い記述があった。そうだろう?」
「なぜそれを……」
「遍照はあまねく照らす光。大日如来を遍照金剛と呼ぶこともある。だから俺が大日如来の名によって封印されたと思って、その真言を唱えた……そんなところ か」
「う……」
 的確に意図を言い当てられた様子の前田に、護宏はさらに言葉をつぐ。
「まあ、悪くはない読みだろう。たしかにその記録は、俺が封印された時のものだからな」
「封印されていたのはやはりおまえなんだな?」
「そう信じていたんじゃなかったのか?」
 護宏はからかうように切り返した。
「あてずっぽうでやられたのなら、迷惑な話だが?」
「それは……」
「まあ、その点は間違ってはいなかった。だが俺を封印していたのは大日如来の真言などではない。俺自身の名だ」
「ならばまだ……」
「言っておくが」
 護宏は前田の言葉をぴしゃりと遮る。
「俺の名を探そうとしても無駄だ。そもそもおまえは俺がなにかを知らない」
「『淵源』じゃあない、と?」
「淵源は場所の名だが?」
 薄く笑みを浮かべて時に遮り、時にかわしてみせ――護宏の話し方は、いつもとはいくぶん異なっていた。
 まるで、前田をもてあそんでいるかのような口調。
 この場に宝珠兄弟が居合わせたとしたら、その差異にすぐ気づいたことだろう。そこに護宏の変貌の一端――彼らにはほとんど見せないような――を見て取っ たかもしれない。
「それに、そもそも人間には俺を封じることはできない。俺を封じられるのは俺だけだ」
 そう言い放つ護宏は、明らかに人間ではないなにものかとしてその場にいた。人と変わらぬ姿を身にまとい、だが、人ならぬ気配――圭一郎を戦慄させた、あ の気配――を漂わせ、前田を見据えて立つ。
 前田も分が悪いと悟ったのか、警戒するように身構えた。目は油断なく護宏から離さず、隙をうかがっているように見える。
「だいたい、仏の名を唱えたぐらいで、この俺をどうにかできると思っていたのか?」
「……そういう宗派なんでね」
 前田はジャケットのポケットに手を突っ込んだまま答えた。ポケットの中でなにかを持っているような膨らみが見える。
「そのわりにはさっきも、試しに唱えていたようだったが?」
「真剣に願っていなかったとでも言うのかね?」
「当然だ」
 護宏の目から、不意にからかうような表情が消えた。
「おまえの願いは、俺を封印して操ることなどではなかったはずだ」
「!」
「さらに言うなら、妖魔によって地上を浄化することすら、そもそもおまえの願いではなかった……」
 前田の顔色がさっと変わった。
「わ、わかったふうなことを言うな」
「わかっているから言っている」
 護宏は静かに続ける。
「摩尼珠は願いをかなえる。だが願いは――欲望は満たされることはない。欲が欲を生み、人間は自らの欲に際限なく溺れていく。ゆ えに摩尼珠の持ち主は慎重に選ぶ必要がある。……おまえは自分が摩尼珠に引きずられ、欲に溺れて本来の願いを見失っているこ とに気づいているか?」
 すっとさしのべた護宏の手には、いつの間にか摩尼珠が乗せられていた。
 前田がはっとして、ポケットから手を出す。その手にはなにも握られていない。
「わ、私の摩尼珠をいつの間に?」
 切り札を奪われてうろたえる前田に向かい、護宏は静かに宣告した。
「おまえのものではない。これは返してもらう」
「私はその持ち主として選ばれたんだぞ」
「俺はおまえを選んではいない」
「おまえが選ぶ? 封印されていた闇ふぜいが?」 
「闇、か。それは違うな」
 護宏はくすりと笑う。
「闇は人間の欲。俺はそれに形を与え、行く末を見届けるだけ。摩尼珠はそのための道具だが、大概の人間は欲に溺れ、自分を見失う。おまえも同じ――これを 持っていてもろくなことにはならない」
「そ、そんなはずはない!」
「今なら踏みとどまれる。落ち着いて、よく考えてみるがいい」
 摩尼珠を手にしたまま、護宏は続ける。
「おまえが那神寺にいた頃に願っていたことはなんだったのか。これを手に入れてからおまえ自身がどう変わっていったのか」
「な、なにを言っている。黙れ!」
 護宏に飛びかかろうと、前田が身構える。護宏はいくぶん哀れむような表情を浮かべ、だが、静かに言葉をついだ。
「本来の願いを思い出せ。でなければ早晩、おまえは闇に呑まれるだろう」
「ふざけるな、返せ!」
 前田が摩尼珠を取り戻そうとしてつかみかかる。護宏の身体が動いた様子はなかったが、それにもかかわらず、前田が手を伸ばした位置に護宏の姿はなかっ た。
「――これは忠告だ」
 背後から聞こえた、護宏の声。
 前田がはっと振り返る。だが、そこにはだれの姿もなかった。
 冷たい風が川べりを吹き抜ける。
「か、返せ……」
 既に護宏の姿はない。
「あれは私の摩尼珠なんだーっ!」
 無人の川岸に、前田の叫び声が響き渡る。
 護宏の言葉は、前田には届いていなかった。自分のものであったはずの摩尼珠が失われた――この時の前田の頭にはそれだけしかなかった。

「――届かないものだな」
 からりと弓道場の扉を開けて入ってきた護宏がふと発したつぶやきを、早瀬あゆみがいち早く聞きとがめた。
「おはよう滝くん、届かないってなにが? 飯島の掃き矢癖なら、だいぶ治ってきたと思うけど?」
 矢が的まで届かず途中で地面に落ちてしまう一年生のことかと思い、早瀬はそう話しかける。
 護宏は少し顔を上げ、やや面くらったように早瀬に目をやって、ああ、そうだな、とだけ答えた。

(第二十二話 終)

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