夢魔

第2章 血統

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 十六、七年前のことである。
 まだ駆け出しの夢使いだった桜川淳弥は、夢使いの会合で顔を会わせる一人の女性が気になって仕方がなかった。というより、会合にやってくる人――特に男性――の多くが同じ思いだったのだろうが。
 彼女はまだ十八歳だったにもかかわらず、倒した夢魔の数はベテランにひけをとらなかった。夢使いの腕が未熟だと、夢魔に逃げられてしまうこともあるのだが、彼女は夢魔を取り逃がしたことなど一度もないのではないかと噂されている。天才夢使いと呼ばれる彼女は、しかも、際だった美貌の持主だった。
 彼女の名を、木田薫といった。

 彼女のいる会合の席では、彼女は話題の中心となり、彼女のいない会合では、噂の的となった。それだけの恵まれたものを持ちながら、少しも高飛車なところがなく、誰とでもにこやかに話す。長い時間をへて振り返ってみれば、彼女には己の才能や美貌に気づいていないようなふしがあった。素顔で映画に出てもおかしくないような美しい顔立ちでも、その振舞いはものごとに果敢に挑む少年を思わせる。その奇妙なバランスが彼女の魅力をより一層確かなものにしていた。
 男女問わず、その才能と容貌に溜息をつき、天は二物を与えるところには与えているものだと噂しあった。
 桜川も彼女に憧れる夢使い達の一人だったが、言葉を交わす機会はなかなかなかった。
 ところがある日の会合で、偶然隣に薫が座ったことがある。しばらく迷った末に、思い切って桜川は話しかけてみた。
「あ、あのっ」
「はい?」
 薫はにこやかに応じた。桜川は特に話すべき話題もなかったことに今さら気づいて、内心慌てていた。
「き、木田さんって、今まで夢魔を逃がしたことがないって聞きましたけど、本当なんですか?」
 言ってしまってから、なんてつまらない質問をしたんだろうと後悔する。あんなに迷った末に、こんな陳腐な質問で薫を煩わせてしまったと、内心彼は大いに恥じ入った。だが薫はそんな相手に慣れているのか、それとも生まれついての無邪気さからなのか、桜川に対して非難めいた様子は少しも見せなかった。
「やだなあ。どこからそんな噂が出たんですか?」
 薫はくすくす笑った。陳腐な思い付きの質問に応えてくれたのが、桜川にはこの上なく嬉しかった。
「逃げられたことぐらいありますよ。それ以来、もう悔しくって……」
 子どものような口調と瞳のきらめきに、桜川もつられて笑う。
「そりゃあ悔しかったでしょうね」
「だから私、決めたんです」
 薫の目に、ふと真剣味を帯びた光が宿る。
「あの夢魔は私が倒そう……って」
「はあ」
 瞳の真剣な輝きを見てしまった桜川は、その言葉が冗談などではないことを悟る。
 取り逃がした夢魔にそこまでこだわる理由はわからない。だがこのうら若い女性は、その夢魔を再び見つけたなら、地のはてまでも追っていくことだろう。とどめを刺すために。
 桜川が彼女と会話したのは、その時が最初で最後だった。

 まもなく彼女は夢魔退治をやめ、会合からも姿を消した。結婚して粟飯原薫という名になっているという噂は聞いていたが、彼女の引退の理由も、取り逃がしたあの夢魔を倒せたのかも、桜川には知るすべがなかった。だが、あの会話で薫が見せた真剣な眼差しを思うと、彼女がその夢魔を倒さずに引退するはずがないように、彼には思えるのだった。


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