夢魔

第6章 手紙

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「すいません、響子さん」
 玄関先で、島村透は軽く頭を下げた。
「こんな夜遅くに、いきなりおしかけたりして」
「いいのよ、気にしないで」
 国村響子は、いつものさばさばした笑顔で答える。とはいえ、もう十二時をまわろうかという時刻だった。透は半ば言い訳がましく付け加える。
「今日の仕事に差し支えないように帰りますから」
「あ、私もう終わってるから」
「え、もう?」
「七歳の子どもが相手だったからね。さっさと夢魔退治してきちゃった」
「もしかして俺、電話で仕事の邪魔したんじゃ……」
 先刻響子の家に電話をかけた時、響子は仕事中だったのではないかと思って、透は慌てた。だが響子は透を安心させるようにかぶりを振った。
「そんなことないって。仕事中は電話切ってるから。……それより透君はまだなの?」
「あ、俺、今日は仕事なかったんです。三ケ月ぶりの休みですよ」
「休みかあ。いいな」
 夢魔の力が増すに従って、夢使いの出番も多くなってきていた。透や響子に限らず、夢使いたちは三ケ月に一度休めればよい方だった。一日の仕事時間は数分から数十分と短いが、毎日続くとさすがに疲れを感じることもある。
「ま、入ってよ」
 響子は透を部屋に招き入れた。部屋の中はきちんと片付いている。二十代半ばの独身女性の部屋にしては少し殺風景だと思いかけて、透ははっと気づく。
(一人暮しの女の人の部屋におしかけてしまった……!)
 意識した途端にどぎまぎしてしまうあたりが、透の不器用かつ純朴なところである。
 響子は持前の知識とさっぱりした性格のせいか、実に頼りになる。年下の透は何かにつけて響子に相談を持ちかけるようになっていた。今日もその延長のはずだった。あまりに衝撃的な事態に慌てふためき、他に相談できる相手も思い浮かばずに、響子に電話をかけ、相談したいことがあると言ってしまったのだ。だが、今の今まで、響子が独身女性だということをすっかり忘れていたのはあまりに迂濶だった。
(ど、どうしよう。誤解されてたら……)
 内心の動揺を隠しきれず、一人で赤くなっている透を、響子は面白そうに眺めていたが、やがて口を開いた。
「と・お・る・く・ん」
「は、はいっ!」
 声がうわずっている。響子はいたずらっ子のような目をして、しかし声だけは真剣に言った。
「何か大変なことがあったんでしょう?」
「!」
 透はその一言で、我に返ることができた。
 夜中にもかかわらず、響子の家に駆けつけてしまったほどの重大な用事。
 透は一通の手紙を取り出した。かなり分厚い。
「これを……読んでみて下さい。一人でこの内容を受け止められるほど、俺は強くないんです」
「見ていいの?」
 手紙を受取りながら尋ねる響子に、透はうなずいてみせる。手に取った手紙の差出人の名を見て、響子は目を丸くした。
「……環君から?」
「あいつ、昨日から旅行中なんです……千秋と」
「仕事は?」
「一昨日のうちに三日分済ませたらしいですよ」
「……あきれた。ほんとに天才なのね」
 響子の言葉は驚き半分、羨望半分といったところだった。
 夢魔退治による精神的な消耗は激しい。一日に何度も夢魔退治をすることは困難である。よほどタフな精神力の持主か、ほとんど消耗せずに夢魔退治をこなしてしまう能力の持主でなければ、そのような離れ技は不可能なはずだ。
 天才の名の高い環でも、決して楽な作業ではなかったはずだと、透は思う。
 そこまでして千秋と旅立った理由は何か、そして、透に直接話すのではなく、手紙を送りつけたのはなぜか。
 旅立つ前の環は、それらの理由については何も語らなかった。透が知っていたのは、環が何年も前――恵美が失踪した頃から――何か大きな悩みを抱えており、それが未だに解決していないらしいことと、千秋から聞いた幾つかのことだけである。二人で旅行することについて千秋は、親には内緒だからうまく言っておいてね、と言った後で、その理由について語ってくれたのだ。
 環は最近、毎日のように悪夢を見るという。彼にはその悪夢が「ただの悪夢ではない」ように思えるらしい。しかも、彼にはその悪夢の意味がなんとはなしにわかっている。だが彼は、その意味を千秋にさえも打ち明けていなかった。
 ――今までもよく、なんだか大きな悩みを持ってるように見えることがあったけど、何も言ってくれなかったの。でもはたから見ててあまりに辛そうだから、話してくれないかって持ちかけて……。
 環自身も自分を苦しめているものについて、誰かに語りたいとは思ってきたらしい。だが、これまで何年もの間、誰にも言えなかったことを実際に打ち明けるとなると、どうしても尻込みしてしまう。そんな環の様子では、電話で話したり、昼間に人目のあるところで話したりすることはできそうになかった。それを察知して、邪魔の入らないところでゆっくり話そう、と、旅行の提案をしたのは千秋らしい。
 とはいえ、なぜ夢魔の力が強まって夢使いが忙しい思いをしているこの時期に、今まで口を閉ざし続けてきた悩みについて語らねばならないのか、透には理解できなかった。第一、悪夢の意味を人に打ち明ければ悪夢を見なくなるというものではないではないか。
 だが、送られてきた手紙には……。
「読むのに時間がかかりそうね。コーヒーでも飲んでてよ」
 折り畳まれた手紙を開きながら響子が言った。透はやっと目の前に出されたコーヒーに気づく。先刻、透が一人でどぎまぎしている間に入れてくれていたようだ。半ば機械的な手つきでミルクを入れながら、透の目は響子が読み始めた手紙にじっと注がれていた。


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