夢魔

第8章 悪夢の現実

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「お兄ちゃん、検査の結果が出たって」
 妹の絵梨香が病室に入ってきた。透が意識を取り戻した翌日のことである。仕事のある両親や姉と違って、専門学校生の絵梨香はまだ時間に余裕があるらしく、ちょくちょく病室にやって来ていた。透はベッドの上に上体を起こして妹を迎えた。左目には応急処置の眼帯をしている。絵梨香のすぐ後に担当医が来て検査結果を告げた。
「体調はいいようですね、二、三日もすれば退院できるでしょう。問題は左目なんですが、どうも完全に視力を失っているようですね」
「そうですか……」
「ただ、あらゆる検査をしたのですが、原因が見つかりません。というのか、眼球や視神経の機能に異常はないんです」
「はあ……」
「精神的な原因ということもありますので、これからそちらの検査もしてみましょう」
 医師が出て行ってから絵梨香が心配そうに尋ねた。
「お兄ちゃん、大丈夫なの?」
「大丈夫さ」
 入院までして大丈夫なはずはないのだが、妹の手前、透は元気を装って見せる。
「片目ぐらいどうってことないよ、異常はないっていうし、すぐ治るだろ」
「だといいんだけど……」
 絵梨香は溜息をつく。
「うちでもみんな心配してるよ。なかなか来られなくてごめんってさ」
「悪いな、心配かけて」
 絵梨香が帰るまで、透はあくまでも明るく振舞っていた。だがそう楽観視できる状況にないことは透自身が一番よく知っている。失ったのは左目の視力だけではない……。
「透君!」
 響子が慌てて駆け込んできた。見舞いにしては様子がおかしい。
「何かあったんですか?」
 響子は一呼吸おいて驚くべき知らせを告げた。
「今朝……沢村君が死んだわ」
「! どうして……」
「君のケースと一緒らしいわ。夢魔退治してて返り討ちにあったみたいなの」
「返り討ち?」
「沢村君の依頼人は、学校だかバイト先だかの後輩だったみたいね。昨日の時点で衰弱がひどくて入院してたそうだけど、今朝早くに息を引きとったわ。でもその直前に、うわごとで『沢村さん、危ない……殺される』って言ったのを家族の人が聞いていたそうよ」
「じゃあその頃沢村も……」
「ええ。その後輩とほぼ同じ時刻だったらしいわ」
「……あいつだ…」
「え? 何?」
 透はうめくような声を出した。無意識に眼帯越しの左目を押さえている。
「あいつが……みんなを殺そうとしてる……」
「透君、どうしたの?」
 透の脳裏にまざまざと蘇ってきた光景。環の顔をした夢魔の王が、嘲笑うような赤紫の瞳で言う。
――仲間が殺されていくさまをどうすることもできずに眺めているがいい!
(このことだったのか)
「透君、しっかりしてよ。あいつって昨日言ってた夢魔の王?」
 響子の声に透はうなずいたが、その表情は心なしかうつろだった。
 夢魔の王の手が夢使いにまで及びつつある。このまま放っておけば、さらに夢使い達が殺されていくだろう。透はそのことをはっきりと予感していた。彼はそのことを、いつもの癖で考えながらゆっくりと響子に告げる。
「多分あいつは夢使いを狙ってきます。今までの夢魔は大して夢使いのことを知らなかったし、夢使いを倒す力もなかった。でもあいつははっきりと夢使いを邪魔者として認識しています。夢使いがいなければ、夢魔に敵はいないと知っているから……」
「でも君は殺されずに済んだじゃないの」
「その代わり奪われたものが二つあります」
「何?」
「一つは左目の視力……」
「……見た目は何ともなかったのに……」
 響子は嘆息したが、それ以上続けようとはせず、促すように透を見る。
「もう一つは……」
 透は大きく息を吸い込んだ。認めたくない。だが昨夜何度も見せつけられた現実だった。
「夢使いの力です」
「何ですって?」
 響子は少なからず動揺したようだった。力が抜けたようにそばにある椅子に座り込む。透は続けた。
「昨夜試してみました。でも何度やっても夢には入れなかったんです。こんなことは今までにはなかった……」
 透の夢使いとしての力を失わせる――。夢魔の王の目的はまさにそのことで、左目はその副産物ではないだろうかと透は思っていた。
 左の目と夢使いの力がどこでどうつながっているのか、透は知らない。だが現実に、左目の視力と同時に夢使いの力を、彼は奪われたのだ。
「でもなぜそんなことを……」
 響子がかすれた声で呟く。
 それについても透は仮説を持っていた。昨晩ずっと考えて辿り着いた考えである。なにしろ夢に入れないことがわかった衝撃のためか、昨晩はどうしても眠れなかったので、考える時間はたっぷりあった。
(あれはあいつの宣戦布告だったんだ)
 これから夢使いを殺していくという、夢魔の王の恐るべき宣言。それを仲間に伝えさせるために、わざと一人目の夢使いを生かして帰したのではないか。
(それに、俺が殺されなかったのは、これからどうなるかを知っているのに、どうすることもできない苦しみを味わわせるためだったんじゃないだろうか)
 透は夢魔の王の嗜虐的な表情を思い出してぞっとした。人を苦しめることに喜びを見いだす表情。環の性格からは想像もできない表情が、環と同じ顔に浮かんでいる――。彼にはその表情が『おまえはただ殺すだけでは飽き足りない』と言っているようにすら思えた。
(だけど、なぜ俺が?)
 宣戦布告を受ける存在がなぜ透でなければならなかったのだろうか。
 そういえばあの夢魔の王ははっきりと透を名指しで呼び「おまえを待っていた」と言っていた。夢魔の王にとって、島村透でなくてはならない何らかの理由があったのだろうか。
 透には思い当たる理由がない。ただ一つあるとすれば……。
(粟飯原が鍵を握っている)
 環の顔をした夢魔の王が、環の親友である透をわざわざ苦しめようとしたことを考えると、それは当然の結論だった。
(でもあれは粟飯原じゃない)
 透にはわかっている。たとえの手紙の推測通り夢魔の王の子だったとしても、粟飯原環はこんな残虐なことをできる性格ではない。
 それにあの女の声。透には聞き覚えのない声だった。
(粟飯原が見つかればいいんだが)
 その時はっと思い至ることがあった。
(もしかしてあのS海岸での事件が何か関係あるんじゃないのか?)
 環と千秋が行方不明になった事件の捜査は、あれからほとんど進展していない。現場の血痕の鑑定結果は「少なくとも環のものではない」ことしか判明していいない。さらに発見された毛髪は、少なくとも二人のものではなかったという。現場の捜査ではその程度しか明らかになっていなかったし、二人の行方も杳として知れなかった。透達はこの事件と環の手紙、夢魔の力の急激な成長といったことを切り離して考えていた。だが本当はどこか一点でつながるのではないか、透はそう思ったのだ。
 だがそれらを確かめる術は、もはや夢使いの力を失った透には残されていなかった。

 沢村の死は夢使いたちに大きな衝撃を与えた。だがそれから間もなく、さらに彼らを震撼させる事件が起こった。
 二日後、透が退院した日。
 夢使いの副リーダー格の一人で、多くの若手を育て上げてきた夢使いの訃報がもたらされた。

 桜川淳弥である。


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