翌朝。
ディングは夜明け前には起き出して出発の準備を整える。事前にラドアに渡された資料では、地下遺跡の最深部までは数刻もかからないらしいが、トラップが多いことと死霊の危険を考えれば、早めに出発しておくにこしたことはない。死霊の徘徊する遺跡の中で夜を迎えることはできるだけ避けておきたいのだ。
ケレスの魔術図書館──魔術研究の水準の高さには大陸でも定評がある──ですら一ヵ所にとどめ置くのがやっとだったという場で、死霊に太刀打ちできるとも思わない。いざ襲ってくれば、ラドアの魔法もあるだろうとは思っているが、それでも危険なことには変わりがないのだ。
相変わらす重苦しい圧迫感に襲われているが、不思議なことに、昨晩よりは幾分かましになったような気がする。このぐらいなら、なんとかなるだろう。
「調子はどうですか」
いつの間にかすっかり支度を整えたラドアがどこからともなく現われた。ディングは礼を言って小さくたたんだ蚊帳を返す。
「おかげでぐっすり眠れたよ。やっぱりなんでもそろう道具屋さんってすごいなあ」
「ふふ、そうですか?」
ラドアは謎めいた笑みを返す。
「そのためにはこうして危険な所にも行かなければならないのですけれどね」
「そうかぁ……でもさ、トラップは任せてくれよな!」
ディングはいつもの屈託のない笑顔を見せた。
まもなく二人は墳墓の扉の前に立つ。ケレス魔術図書館による注意書きがべたべたと貼られているが、年月の経過のせいか、かすれたりにじんだりしているものが多い。
「これ、何が書いてあったのかな?」
「ここに埋葬されていた死者が915年頃に突然死霊として墳墓から出てきた。彼の力によって死者はことごとく死霊となってよみがえり、集落で生活していた人々に襲いかかって仲間を増やしていった。919年に当局の指示によって図書館の生命魔法研究科が死霊達をこの墳墓の中に封印したが、この中は死霊を作り出して操る場となっており、死霊も多いので、探索者の安全は保証しかねる……こんなところでしょうか」
「入っても大丈夫なわけ? 封印解けたりとか……」
「ああ、生きた人間が出入りする分には大丈夫ですよ。ただ、中の死霊を荒れさせてしまうと危険かも知れません」
「ってことは、なだめながらそっと入る分には大丈夫ってことか」
「ええ、そういうことです」
ラドアは悠然と微笑んで墳墓の扉に手をかけた。
まもなく。
「マジかよーっ」
途方に暮れたディングの声が、地下遺跡に響いた。
ディングが音をあげるのも無理はない。遺跡には一歩歩くごとにといってもおかしくないほどにトラップが仕掛けられていた。ディングにしてみれば、ひたすらトラップを解除する作業に追われている。死霊がどうのと言っている場合ではない。
「いくらなんでも多すぎるぜ、これって」
「そうですね」
ディングの独り言に近いぼやきに、ラドアはきちんと合いの手を入れる。
「それに……私にもわかるぐらいに目立つように設置されているんですね」
「そうなんだよなー」
ディングは前方にまっすぐ伸びる道を眺める。ラドアの持つ蛍草のあかりにぼんやりと照らされた床や壁のいたるところに、いかにも何か仕掛けられていそうな突起やワイヤーが見えた。巧妙に隠されている古いものもあるが、トラップの大半はかなり新しいもののようである。
「なんだか、わざとトラップがあるのを見せつけてるみたいだ」
「ええ、まるで先へ進むなと言っているようですね」
「それもあるけど……なんだろう、これ」
ディングが不可解に思うのは、数の割には個々のトラップの質が低いことだ。既に故障しているものもあるし、仕掛けも単純だった。ガイドの練習用に販売されているものも混じっている。転がる岩を落とすトラップが、坂を下ったところに仕掛けられていることさえある。
「仕掛けたのは多分、あんまり詳しくない奴なんじゃないかなあ。地形とか威力とか、あんまり考えてないっぽいぜ」
「もしかすると、こういうことなのかも知れません」
ラドアがディングの手元を照らしながら言った。
「死霊を刺激することを恐れた人が、誰もここに入れないようにと、とにかくありったけのことをした……恐怖にかられて、トラップの効果を計算することも忘れてね」
「ああ、なんかそんな感じだなー」
ディングが納得しかけた時。
(……あんたが言うなら、そうなんだろうよ)
どこかでそんな皮肉めいた声が聞こえたような気がした。
「えっ?」
周囲を見回すが、声の主は見あたらない。
「どうかしました?」
「いや、なんだか声が……」
「声? なにも聞こえませんでしたが」
「? おかしいなあ」
ディングは首をかしげる。ひどく聞き慣れた声だったような気がするのに、誰だか思い出せない。
(それになんだろう。誰かがすぐそばにいるような……)
死霊を見たり気配を感じたりするのとは異なる感覚だった。誰かが自分を気遣って寄り添っているような、一人ではないような感覚が、朝からずっと続いている。
(まあ、いいか)
理解できないものをむやみに考えていても仕方がない。ディングは話題を戻す。
「けど、そこまで怖がるってどういうことなんだろう」
「さあ、そこまでは……ただ……」
ラドアがどこか意味ありげに言う。
「ただ?」
「十数年前、死霊が突然力を増したのは、その時ここを探索していた一団の誰かが偶然に持っていたあるものが原因だった……という噂があるんです。それが本当なら、その時に中にいた人々が逃げ戻る時、慌てて仕掛けたものだったのかも……」
「なるほど。あ、じゃあもしかして、図書館の封印が完全じゃないのって、このトラップのせいで奥まで行けなかったからとか?」
「……ありえますね」
二人は顔を見合わせた。もしもそうならば、なんとなく間の抜けた事態と言えなくもない。
「しかし、なんかトンネル掘ってるみたいな作業だよな、これって」
一つ一つのトラップをまめに解除しているため、なかなか前に進むことができない。だが、こうしなければ進めないのだ。
「トンネルならば、いずれ抜けますよ」
ラドアの言葉通り、一本道になっている通路に異常なほどに仕掛けられたトラップは、ある地点でぱったりととだえているようだった。
「やれやれ。なんとか先が見えて……」
ディングがほっと一息ついた、その時。
カチリ。
かすかな音が聞こえた。ほぼ同時に、ぎい、と何かが開くような音。
(しまった!)
新しく数の多いトラップに気を取られ、うっかり見落としていた古いトラップ。
背後に巨大な影がゆらりと立ち上がる。古代語魔法と連動し、起動させると魔法で造られた怪物が襲いかかるようになっているトラップだったらしい。熊に似た怪物が二人に迫りつつあった。解除前のトラップ群と怪物に挟まれる形でディング達は立ちすくむ。
「ラドアさん、よけて!」
ディングは叫ぶ。トラップを解除し損ねた責任は自分にある。この場を切り抜けるのに、ラドアをあてにしてはならない。ディングのガイドとしての職業意識だ。とはいえ彼には、ナイフを投げるぐらいしか攻撃の手段はない。手に余ることはわかりきっていたが、もはや逃げ場はない。
怪物が鋭い牙をむき出しにしてこちらの隙をうかがっている。猶予はない。
(どうすれば……)
必死に頭をめぐらす。何か方法はあるはずだという確信がどこかにあった。
(火を!)
そんな声が聞こえた。いや、自分が発した声だったか。
(あ、そうか)
ふとある考えがひらめき、ナイフを構えかけていた手をいったん下ろす。
(なんで忘れてたかなー?)
手がごく自然に動き、宙にシンボルを描く。短く発動の言葉を発すると、怪物の鼻面に炎の球が命中する。のけぞる怪物の喉元にナイフが続けざまにつき立った。よどみのない動作はすばやく、怪物に反撃の隙を与えない。
たまりかねて怪物は通路を入口に向けて逃げ出し、脇道に消えていった。
「なんとかうまくいったかな」
「戻って来ませんか?」
「たぶん大丈夫だと思う。あの手の魔法生物って、トラップを起動してから少しの間しかもたないんだ」
ラドアの問いに答えた彼は、ふっと首をかしげたままの姿勢で黙り込む。
「あれ……俺って……」
「ガルトさん?」
ラドアの言葉に彼はゆっくりと振り向き、笑い出す。その表情はいつものディングの屈託のないものとは明らかに違っていた。かといって、今までのガルトの、影のある皮肉めいた笑いでもない。
「やっぱり、はじめから仕組んでたんだ」
「何をです?」
「俺達を一つにすること。違うか?」
ラドアに「ガルト」と呼ばれた彼は、だが先刻までのディングの意識の中にいたガルトではない。摂理の力と過去の記憶をともに持ち、ディングであると同時にガルトでもある、そんな人間であった。
ラドアはいつもの謎めいた微笑を浮かべて答える。
「違いますよ。私が仕組んだのではなく、あなたが選んだのです。私はただ、その選択を容易にできるように手を貸しただけ」
「うわ、いかにも詭弁っぽい」
残りのトラップを解除しつつ、ガルトはおどけた口調で答えた。
「トラップを解除する技術と魔法と摂理の力をみんな使いこなさないとやってけない場所にわざわざ連れて来ておいて、よく言うよなー」
「そうですか?」
ラドアは動じた風もなく、いつものおっとりとした返事をよこす。
「まあ、あのままじゃどうしようもなかったから、いいんだけどな」
ガルトは苦笑した。人格が分かれているという状態は、考えてみるまでもなく普通ではない。島で自分がしたことをある程度冷静に振り返ることができるようになるまでは、不安定な感情によって力を暴走させることがないようにしておかねばならなかったが、今はその時期を脱しつつある。ラドアの意図はわからないが、ガルトにとってはむしろ好都合と言ってよかった。
分かれていた時には想像もできなかったが、トラップを解除することも魔法を使うことも、どちらも自然にこなすことができたし、ディングであった自分の過去もそうでない自分の過去も、どちらも「自分自身」の過去の記憶として違和感なく思い起こすことができる。生まれた時から呼ばれてきた名は「ガルト」だ。だから自分の名は「ガルト」なのだと思う。
「で、こうなるのを待ってたんだろう? そろそろ本当の目的を話してくれないか」
「ええ」
今度はうなずいてラドアが話し出す。
「『死神の額飾り』をご存じですか?」
「!」
ヘスクイル島の首都、レブリムに伝わる秘宝の名だ。破壊神の額を飾る、銀の蛇。古い言い伝えでは破壊神を助け、時には彼を乗せて空をも飛ぶという。
「18年ほど前にレブリムの宝物庫から行方不明になったことは?」
「いや……知らない。庶民に知らされるようなことでもないしさ」
「『死神の額飾り』は、逃げ出したんです。自らの意志でね」
「?」
ガルトは首をかしげる。その様子にラドアはおかしげに笑った。
「不思議ですか? 人々の信仰によって規定され、それにふさわしい姿と力を持つことが」
意味ありげな言葉だった。ガルトは聞きとがめる。
「どういう意味だ?」
「あなたと『死神の額飾り』は、同じ信仰の中でそれぞれの役割を与えられてきたんですよ。だからあなたが誕生すると同時に、彼女は目覚めた。ところが、あなたに出会う前に、島外の冒険家に捕らえられてしまったんです」
「……」
ガルトは先をうながすようにラドアを見る。にわかには信じ難いが、途中で口をさし挟むべきことでもない。
「冒険家は不用意にも、彼女を携えたままこの遺跡に足を踏みいれてしまい、彼女は死霊達の力の源として捕われたままになっているんです」
「それが、この遺跡が危険になった真相?」
「そういうことです。そして、彼女を取り戻すことができるのはあなただけ」
「それで? 俺にどうしろと?」
破壊神信仰の中で結び合わされてきた存在と出会う。それは彼を破壊神の方向へと向かわせることになるのではないか。ガルトにはそれが気がかりである。
「力が不安定で、困っているんでしょう?」
ガルトはどきりとした。記憶も力も取り戻した今、些細なきっかけで死をふりまいてしまうことを止める方法はない。
ウドゥルグの力を持つことから、自分は逃げることができない。たとえ心を分け、記憶を封じていたとしても、それではなにも解決しなかった。
「彼女に会いなさい。きっとうまくいきます」
ささやくようなラドアの声に、ガルトはくすりと笑う。
「あんたには未来も見えてるんだな」
「さあ、どうでしょうか」
曖昧な返答は、肯定とも否定ともとれる。
「まあいいさ。要するに額飾りを取り戻せばいいんだろう?」
額飾りが自分にどんな影響を与えるか。気にかからないわけではなかったが、どのみちここまで来て引き返すのもつまらない。第一、これは仕事だ。ラドア以外のケレスの人間にとって、彼は未だにガイドの「ディング」なのだから。