その数日後。
ランディは以前アルバトロスの襲撃先について賭けをしていた店に寄ってみた。
「よう、あんたか」
店の常連らしい男は、ランディの顔を覚えていたようだ。気さくに話しかけてきてくれる。
「惜しかったな。ついこの間大穴が出たところなのによ」
「それは残念だ」
何食わぬ顔でランディは答える。バルザック邸への襲撃を事前に知っていたランディだったが、あまり続けて賭けに勝つと、彼とアルバトロスのつながりを察知される危険がある。それゆえにあえて店に行かずにいたのである。
「大穴ってことは、例の穀物商人のところか」
何も知らないふりをして、ランディは尋ねる。
「ああ。バルザックは被害届を出していないんだが、監査局に賄賂の証拠書類がばらまかれたって話だ。穀物取引の免許停止ぐらいにはなるんじゃないかな……だがよ」
男は幾分声を落とし、続ける。
「バルザックの奴は相当頭にきているらしい。大丈夫かねえ、アルバトロスの奴等は」
ランディの頭の片隅に、先日同席した魔道士のねっとりとした視線がよぎる。
「……そうだな」
ふっと、嫌な予感がした。
店を出てから、自然に足が住宅地区に向かう。バルザック邸にまでは行くつもりはなかったのだが、それとなく周辺を探ってみた方がいいような気がしたのである。
散歩を装って大きな邸宅がいくつも立ち並ぶ通りを歩いている時。
視線を感じた。
(こいつは……)
幾分狂気じみた、粘着質の視線には覚えがある。
ランディはゆっくりと振り向いた。
「なにかご用ですか」
言葉は丁寧に、だが決して友好的とは言いがたい口調で、ランディは少し離れたところにいる相手に呼びかける。
相手──バルザック邸に居合わせた魔道士は影のようにうっそりとランディの方に近づいてきた。
「あなた、血のにおい、しますね」
南方なまりの声で、魔道士はそう言った。
「……だから?」
「死者の悲鳴、きこえます。その剣が吸った血が、あなたにまとわりついています。あなた、わたしの仲間、ですね」
「?」
冗談じゃない、ととっさに思う。確かに魔剣の主ではあるが、この見るからに異様な魔道士に仲間呼ばわりされる筋合はない。
「近いうちに、祭りがあります。あなたもいかがですか」
魔道士は友好的なことを示そうとするためか、にい、と笑う。ランディはどことなくぞっとするものを感じた。
「祭り?」
「わたしたちの世界をもたらすための儀式、です。あなたもあの塔で、ウドゥルグ様に祈りを……」
魔道士が細くやせこけた手で指し示したのは、住宅地区外れにある塔だった。かつての牢獄のなごりで、現在は閉鎖され、長く使われていないはずである。だが、ランディの驚きは別のところにあった。
(「ウドゥルグ」だと?)
ランディの身に緊張が走る。「ウドゥルグ」とは、ダーク・ヘヴンで信仰されている破壊神の名だったはずだ。
(ダーク・ヘヴンの出身者……? だが……)
ランディはガルトの、きれいな公用語を思い出す。ダーク・ヘヴンの暗殺者は、カムフラージュのためになまりのない公用語を身につけさせられると、彼は言っていた。
ダーク・ヘヴンの出身者でなくても、破壊神の復活を願う者がいるのだろうか。
いずれにせよ、ひどく危険な気がした。
「儀式ってどういうことですか」
つとめて平静を装って尋ねてみる。一刻も早くその場を立ち去りたかったが、このまま放置しておくのも危険な気がしたのだ。場合によっては、ガルトに理由を話して処理してもらった方がよいかも知れない。
「もちろん生贄です。生贄をウドゥルグ様のかたちに並べるのですよ」
あの島では、無意味な殺戮が行われているから──。
かつてガルトがつぶやいた言葉。
ダーク・ヘヴンでは破壊神復活を祈って生贄を捧げるという噂は真実だったのか。
「いかがです? ぜひこの宴の時を……」
ねっとりとした視線をランディに向けながら、魔道士は繰り返した。
「……考えておきましょう」
その場逃れの言葉を捨て台詞に、ランディはさっさとその場を立ち去る。
なにもかもが不愉快だった。
魔道士の存在も、ランディが彼の仲間のように思われていることも、バルザックがその魔道士と親交があることも。
(あそこに入ったのはマジにやばかったんじゃないのか? キースさんよ)
いくら高い理想を掲げたとしても、目の前の悪意に勝てるのか。
厳しい規律も義憤にかられた行動も、逆恨みや歪んだ悪意によって、どんなに悲劇的な結果をもたらすものか。
彼らはその重みを引き受けているのだろうか。
もしも誰かが犠牲になったとして、その主張を貫けるものなのか。
ランディにとっては、わからないことが多すぎる気がした。
ランディの予感は、その数日後に的中する。
その日の晩、ランディが戻ると、キースの屋敷全体が騒然とした空気に包まれていた。
「ターニャ? どこにいるんだよっ!」
ディングの取り乱した声が響く。仲間の男達がなんとかなだめているが、その様子はただごとではないように思える。
「おい、何があった?」
「ターニャがさらわれたんだ。あのバルザックの野郎に」
キースがしばらくここで待機するようにという指示を出している。ディングなどはそうでもしないとすぐにでも飛び出して行きそうだった。
「……昼前、買物に出たターニャが数人の男に襲われた。それきり行方がつかめん。その後、この家に脅迫状が届いた。要求はターニャの身柄と、二度と余計な詮索をしないという誓約の交換、だそうだ」
カッツがランディに説明しながら、手早く地図を広げる。
「要求をのめば、ターニャは安全なのか?」
「向こうはそう言っている。交換は明日中に、バルザック邸に誓約書を投げ込むことで成立するそうだ。だが……」
「リーダー! 脅しに屈するんですか?」
「でもターニャさんが……」
「……」
キースの顔には明らかに苦渋の色が見て取れる。理想を捨てるべきか、娘を犠牲にすべきか。そんな選択を彼は迫られているのだ。
ランディも言葉を失う。悪意がすぐそこまで迫ってきているような気がした。
「今夜中に助け出すってのはどうだ?」
「どうやって? 場所もわからないのに!」
そんな会話を聞きながら、ランディにはふと思いあたることがあった。
──いかがですか? ぜひこの宴の時を……。
「キースさん、ちょっとディングを借りたい。ディング、俺と来てくれ」
「ランディ? 何か知っているのか?」
「確証はつかめんが、もし俺の考えていることが当たっていたら、ターニャが危ない」
「わかった」
キースはうなずく。ディングも手早く身仕度をととのえ、立ち上がった。ランディはカッツに簡単に説明してから地図で経路を確認し、ディングと一緒に駆け出していった。
黄昏時の町を走りながら、ランディは思う。
もしもあの魔道士の悪意にターニャがさらされているのだとすれば、ディングでは到底歯が立たないことだろう。恐らくそれに対抗できるのは、ディングではなくガルトだ。だがランディはガルトを呼び出す方法を知らない。ランディにできるのは、ディングを連れて行ってガルトの出現を待つことだけであった。
「ランディ、どこに……」
息をきらしながら、ディングが尋ねる。
「あそこに見える塔だ。バルザックお抱えの魔道士がいる」
塔の先端は見えていたが、大邸宅の周囲を回って行かなければならないため、思ったよりも時間がかかる。塔に着いた時には、既にとっぷりと日が暮れていた。
塔の入口には鍵がかかっていた。ディングが慣れた手つきで鍵を外し、音を立てないようにそっと扉を開く。
「あかりが……」
「ああ」
今ではもう使われていないはずの塔の内部にランプが置かれている。ランプだけではない。置きっぱなしの書物や食いかけのパンなど、たしかに最近何者かがいた形跡があった。
「ターニャ、いるのかな……」
ディングが不安げに言う。
「上を見てきてくれ。俺は隠し部屋がないか探しながら、後から行く」
ランディの言葉に、ディングは階段へと向かう。
(ちっ……あの時みたいじゃないか)
壁をさぐり、わずかな痕跡も見逃さないように部屋を調べながら、ランディは思う。
7ヵ月前、祖国ケイディアで起こった、忌まわしい事件。
行方不明の婚約者を探して、一族の広い敷地を走り回った。片隅の古い塔の最上階を捜索していた彼が見たのは、おびただしい鳥の死骸──禁断の秘術が行なわれた跡だった。それから間もなく、ランディは一族を失った。彼の婚約者を秘術によって宝玉に変え、魔剣をふるって一族を惨殺した兄によって。
人間のエゴと悪意。他人の血をもってあがなう術。
──生贄です。生贄をウドゥルグ様のかたちに並べるのですよ。
あの、身の毛もよだつような言葉。
他人が犠牲になることに、今さらいちいち心を動かされはしない。だがあの狂気に満ちた連中に対して、嫌悪感以外の感情は抱きようもなかった。
なにごともなければいいのだが。
もしもランディの懸念が杞憂に過ぎず、ターニャの拉致と魔道士との間に関係などなかったのだとしても、あの不愉快な魔道士だけは斬って捨てておきたい気すらした。
丹念に部屋を調べるが、隠し部屋のようなものは見つからない。だがランディは1枚のメモを見て顔色が変わるのを感じた。
「12日正午、生贄受け取り、バルザック邸」
そんな走り書きが残されていた。インキも紙も、まだ新しい。
(12日? ……今日じゃないか!)
焦る心をおさえて、ランディは剣を片手に上階を目指した。
(これは……血のにおい)
7ヵ月前の道場での惨劇を思い出す。ねっとりとした匂いが、階段を昇につれて濃くたちこめてきていた。
(まさか、ターニャ……)
耳をすます。塔の上の方は気味が悪いほどに静かだった。先に昇って行ったはずのディングの足音や声も聞こえない。
最上階の部屋に足を踏み入れた時。
ランディの眼前にはこの世のものとは思えぬ光景が広がっていた。
最初にランディの目に入ったのは、祭壇らしき場所の中央に据えられた、ターニャの首だった。一目見てターニャがもはや生きてはいないことがわかる。
(あの……野郎!)
特別好意を抱いていたわけではないが、まるきりの他人というわけでもない。それなりの恩義もある。そんな彼女がこんなにもあっさりと生命を奪われてしまう理不尽さへの怒りは、理性で考えてどうなるものでもない。
怒りが一瞬、その場の状況の真の恐ろしさに気付くのを遅らせたのかも知れない。
よく見れば、そこは地獄だった。
切り取られ、据えられていたのは、ターニャの首だけではなかった。
(こいつは……!)
ランディは目を疑った。7ヵ月前に惨殺された一族の無惨な姿も、これほどに酸鼻をきわめるものではなかったように思える。
ターニャの身体は指一本にいたるまで、ばらばらに解体され、滑稽なほど丁寧に祭壇上に並べられている。何かの紋様か記号を表わしているかのように整然と。おびただしい血に染まった祭壇の上に置かれた指や足首や乳房が異様に白い。血の量から見て、彼女は生きながら解体されていったのではないか……そう思ったランディは、さすがに戦慄を禁じえなかった。
思わずそむけた目に、隣の部屋へ続く扉が映る。血のあとを避けて近づこうとする彼の耳に、短く叫ぶような声と何かが倒れる音が聞こえた。
(ディング? そこにいるのか?)
ランディは静かに扉を開いてみる。
扉の向こうは小部屋になっていた。魔道士はここを人知れず使っていたらしく、書物や薬草、さまざまな器具が積み上げられている。壁際に、倒れた黒衣の男が見える。例の魔道士だろう。そして、その傍らにたたずむのは……。
「ディング?」
呼びかけに彼は答えない。
「おい……?」
ランディが近寄ろうとすると、彼は力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「大丈夫か?」
肩をつかんで軽く揺すぶる。
「すみません……」
血の気のまるでない表情のまま、小さな返事があった。
「ガルトか!」
ガルトは弱々しくうなずく。が、放心状態のまま、ぶつぶつと何かを繰り返しつぶやいている。
「あいつにも……だめなのか……俺は……」
「おい、しっかりしろ! 何があった!」
肩をつかむ手に力を込め、ランディはガルトに呼びかける。ガルトのうつろな表情が少しだけ動いた。
「……ディングが……暴走しかけたんです。俺が出なかったら今頃……」
座り込み、床に目を落としたまま、ガルトは言葉を詰まらせた。
「……こいつは、おまえがやったのか?」
ランディは倒れた魔道士を調べながら尋ねた。魔道士は既に死んでいたが、外傷のようなものは見当たらない。ガルトが暗黒魔法を使ったのだろうか。
「はい……」
自失するような状況だったとはいえ、ガルトはためらいなく人を殺した。まぎれもなく、それは暗殺者の身のこなしがなせるわざだったのだろう。
「……とにかく、みんなに知らせよう。立てるか?」
ガルトはうなずき、ふらふらと立ち上がる。見開いたままの目は、まだどこか焦点が定まっていない。その目がなにかをとらえ、のろのろと動く。
「ランディさん、あれを……」
弱々しくガルトが指し示したのは、床の上に放り出されていた一冊の本だった。表紙には独特の幾何学模様が書かれている。
「これは……まさか……」
隣室のターニャのむごたらしい光景が思い起こされる。なにかを描くかのように並べられていた死体……。
「それが、ダーク・ヘヴンの破壊神の記号です」
「じゃあやはり……」
ランディは言葉を失う。
──生贄をウドゥルグ様のかたちに並べるんです。
文字通り、そういうことだったのだ。生贄を解体し、記号の通りに並べること。誰がこのような凄惨な儀式を考えつくことができるというのだろう。
「ダーク・ヘヴンじゃこんなことをやってるのか?」
「……いえ」
ガルトはかぶりを振った。
「こんな酷い儀式は見たことがありません。この魔道士は恐らく……」
「ダーク・ヘヴンの出身じゃない、ということか」
「ええ」
ガルトはかなり落ち着きを取り戻してきていた。
「どこかで破壊神の信仰に触れ、独自の解釈をエスカレートさせていったんでしょう」
「……ひどいもんだな」
死をあがめる宗教と、残虐な狂気とが結び付いた挙句の凶行。
「こんなことをして、破壊神とやらが復活すると本気で信じていたのか」
「そうでしょうね。実際……」
その先のガルトの声は、低くて聞き取れなかった。
目を覆うばかりの祭壇の部屋を通り過ぎ、二人は塔を降りる。一刻も早く、キース達に知らせねばならない。
「黒幕はやはりバルザックだろう。恐らく最初から殺すつもりで、ターニャをこいつに引き渡したんだ」
塔の1階で見つけたメモを手に、ランディは言う。
「キースさん達は、間違っていたんでしょうか」
「俺にはわからんな。理想に殉じる奴もいれば、安全を好む奴もいる。だが……」
だが……それにしても。
「アルバトロス」のしてきたことは、一人の女性をここまでむごたらしく殺すほどの罪に値するものなのだろうか。
なにか、人間の悪意をきわめてねじれ、歪んだ形でつきつけられたような気がする。
ひどく堪え難い、だが言葉にしようのない、おぞましいものを見てしまったのではないか。
ランディは顔をゆがめる。
生きた人間の悪意というものは、浄化しようのある死霊よりもはるかにたちの悪いものかも知れない……そう、彼は思った。